東西文化研究ノート

東西文化の融和体得者を育成せんことを建学精神とする両洋学園の創立者・中根正親先生の「両洋精神」と、国民教育の友とならんと「社団法人実践人の家」を創始された教育哲学者・森信三先生の「全一学」に魅せられて、「東西文化の融合は大和民族の世界史的使命である!」というテーマに的を絞って東西両洋文化の研究をしている管理人のブログです。
東西文化融合の旗手たち(二)キャノン・ゴードン 中山吾一−両洋に架ける橋−
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    強制移動でおもいだす   ジョイ・コガワ

    父さんと 母さんが
    私たちの心が傷つかないよう
    気を使っていた苦労を
    おもいだす


     

    日本語で
    名前が書けるといばった時
    「じょうだんじゃないよ」
    といった
    ロレーン・ライフのなぞ


     

    戦争が終った時
    弟のティムは
    ユニオン・ジャックを
    かかげた
    なのにローレンたちは
    やっぱりつばかけた


     


    私は神に
    すべての子供を
    愛してくれる神に
    祈った
    私も白人になれますように


     

    (1)中山吾一の少年時代
    中山吾一は、1900年(明治34 )愛媛県喜多郡蔵川村(現大洲市)に生まれた。14才の時、父親が農作業の事故に遭い、それが原因となって急逝したため、一家は困窮して中山吾一の進学の夢は断たれようとしていた。
     

    しかし、中山吾一は、進学の夢を捨てきれず、15才の時、家出同然にして京都に上洛。当然苦労の連続で、新聞配達をしながら聖護院にあった「京都正則予備学校」に学び、ここで中根正親校長(後の両洋学園長)に邂逅した。後に、中根正親から京都正則予備学校の特務生として予備校の雑務をしながら学ぶことを許され、学科のみならず、人生万般の薫陶を受けた。
     

    (2)カナダへ雄飛
    中山吾一は、1918年(大正7)京都正則予備学校を卒業後、立命館大学の予科に進学したが、ある日、せまい日本を離れて世界に雄飛しようとの大志を立て、バンクーバー在住のおばを頼って単身カナダへ渡った。
     

    当時19才の中山吾一は、医者になるつもりででバンクーバーの病院に勤務した。おばさんの夫がメソジスト協会の牧師であったため、自宅で開かれる「集い」に誘われたが、日本を離れる時、キリスト教に改宗することを恐れる母親に、絶対にキリスト教に入信しないと誓ったこともあり、おばさんの誘いをいつも断っていた。
     

    (3)神父、クーパーとの出会
    ところが、1920年(大正9年)のある日のこと、中山吾一がバンクーバーの日本人街の近くを通りかかると、うす汚れた小さな教会から美しいオルガンの音が流れており、その音色に魅せられて吸い込まれるように中へ入っていくと、壁にはキリスト教の宗教画がたくさん掛けられてあり、白衣に身を包んだ一人の神父が会衆を前に熱心に福音を述べ伝えていた。その神父の名は、ウィルバーフォース・クーパーといい、聖公会の英国人牧師であった。
     

    神父クーパーは、この日、十字架に架けられたイエスの画像を前にして、次の三つの話をした。その一つは「汝の敵を愛せよの話」。第二は「イエスと共に十字架に架けられた二人の盗賊のうち、罪を悔いる盗賊に向かってキリストがその罪を許し、永遠の生命を与えた話」。第三は、「イエスの母マリアが自分に振り掛かる危難を顧みず、刑場のイエスに近づいた時、イエスは処刑される自分の身の上のことを忘れて、母マリヤのことを気遣い、弟子のヨハネに母マリアの老後を託した話」であった。
     

    中山吾一は、この第三の話を聴いた時、「私の傲慢な心は、この時ついに砕け散って、私はこのイエスの母を思う愛の心をキリストの心として受け継ぎ、キリスト者になろうと決意し、日本にいる母親に他の兄弟の出来ない方法で親孝行しようと、深く強く決意した。」
     

    (4)キリスト者としての出発
    このように、神父クーパーに出会ったことからキリスト教に開眼した中山吾一は、最初医者になって人々に奉仕しようとブリタニア・ハイスクールに入学したが、病気で退校し、次に教育者になろうとマクリーン・ハイスクールに学ぶかたわら、日本語学校を創立し、その校長として教えた。そして、1924年(大正13)には、神学を学ばんと志し、バンクーバー聖書神学校に入学した。そして1929年(昭和4)長男の死産を契機として精神的転機を迎えた中山吾一は、聖職者たらんとバンクーバー大学内の聖公会神学校に学び、遂に1934年(昭和9)10月28日、聖公会の牧師になった。
     

    中山吾一の牧師としての態度は、悩める人、苦しんでいる人の良き友となり、共に悲しみ共に苦しむというキリストの愛の精神によるもので、日系人ばかりでなく白人の信者にも多大の教化・教導をし、多くの人々から慕われた。
     

    (5)失われた祖国
    中山吾一の人生は波乱に富んだものであったが、中でも特に第二次世界大戦時の強制収容所時代の出来事は、筆舌に尽くし難いものであった。第二次大戦が始まった時、カナダに住んでいた日系移民二万三千人のうち、その二万一千人がバンクーバーに住んでいたが、カナダ政府はアメリカ西海岸から百マイルを防御地帯として、それ以外の所へ日系移民を移動させて、収容所生活を強制した。
     

    こうした苦しい収容所生活が三年間も続いたが、中山吾一は毎日あちこちのキャンプを回っては人々を慰め励ました。この収容所時代の思い出をドキュメンタリーフィクション(半自伝的小説)『失われた祖国』としてまとめたのは、中山吾一の愛嬢「ジョイ・ノゾミ・コガワ」である。『失われた祖国』は、原著名を『Obasan』といい、カナダ文学賞、米国図書賞など五つの文学賞を獲得したベストセラーズであった。

     

    『失われた祖国』は、海外に於ける日本民族東西文化融合史上の輝かしい軌跡をまとめたものだと私は思う。日本民族に課せられた大きな使命があるが故に、日系人が経験しなければならなかった多くの悲しみと苦しみの記録であり涙の結晶である。二つの異質文化が正面から裸でぶつかり合えば、そこには当然数多くの誤解や衝突や抵抗が生まれる。二つの文化の融合は、それらのトラブルを乗り越えてはじめて実現する。『失われた祖国』は、東西文化融合史上の貴重な資料である。

     

    (6)伝道に生きる日々
    戦後、収容所からアルバータ州コールデールに強制移住させられた中山吾一は、カナダ政府のひどいやり方にもくじけず、勇気を奮い起こして立ち上がり、福音の伝道を開始した。アルバータ州の各地を自転車で回って愛の福音を述べ伝える中山神父の熱意にほだされて、キリスト教に改宗した老夫婦が、聖書を熱心に読み始めた話や、伝道中、急に寒波に見舞われて、雪のため背中が冷えて身動きできなくなり、雪の中にうずくまって意識が朦朧となる中、全身の力を振り絞って賛美歌を歌い続け奇跡的に死地をのがれたり、日本人・白人合同の教会の牧師として活躍したことなど、中山吾一の活躍はカナダ全土はもとより、世界の各国にも及ぶもので、文字通り両洋を股にかけて世界の人々の教化教導のために尽くした。
     

    そのため中山吾一は、1966年キャノン(参事司祭)の称号を授けられ、1974年にはピエール・トルドー・カナダ首相より表彰を受け、1978年には、英国女王クイーン・エリザベス二世より表彰され銀メダルを授与された。
     

    (7)著書
    『神の声を聴く時』
    『美しき信仰物語』 日本人聖公会文書伝道部、1936
    『米国・ハワイ伝道の旅』  カナダ日系人聖公会文書伝道部、1958.11
    『わが体験を語る』  カナダ日系人聖公会文書伝道部、1959.9
    『私の実行している健康法』 カナダ日系人聖公会文書伝道部、1960.8
    『健康と食物』 カナダ日系人聖公会文書伝道部、1962.4
    『栗実る郷』  カナダ日系人聖公会文書伝道部、1965.3
    『主の幻に導かれて』  聖公会出版、1982.7
    『新しい天と新しい地』  聖愛刊行委員会、1986.3
    『一世』  聖愛刊行委員会、1987.5
    『永遠の旅』 聖愛刊行委員会, 1987.7
     

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