東西文化研究ノート

東西文化の融和体得者を育成せんことを建学精神とする両洋学園の創立者・中根正親先生の「両洋精神」と、国民教育の友とならんと「社団法人実践人の家」を創始された教育哲学者・森信三先生の「全一学」に魅せられて、「東西文化の融合は大和民族の世界史的使命である!」というテーマに的を絞って東西両洋文化の研究をしている管理人のブログです。
東西文化融合の旗手たち(一)新井奥邃−明治維新が生んだ、キリストの志願奴隷戦士−(4)
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    大徳は跡なし。跡なきに非ず。其の行くや静かにして凡人の眼に隠る。譬へば淵川の能く庶物を潤ほして氾濫するなきが如し。謙道を厭はず。故に隠路を通じて遺(のこ)さず。世人の其の路を見ざる所以なり。(『奥邃広録』)

     

    4、新井奥邃の祈りと東西文化の融合
    新井奥邃のキリスト教理解が、どのようなものであったのかは、奥邃の「信感」(文章)と奥邃の日々の実践を見れば明らかだ。奥邃は自らキリストの志願奴隷たらんと日夜「祈り」と「実践」に余念がなかった。そのことを如実に示す逸話がある。「謙和舎」に空き間が有るにもかかわらず、親しい人から青年の入居をいかに頼まれても、奥邃は「この上、藁一本でも負はされる事は堪えられません。」と言って、新たな入居を断ったというのである。
     

    弟子の永島忠重は、このことについて「実に先生は晩年に至り、多年の間人知れず負担せる内外の重荷の為めに、身心ともに困憊して了われたのである。併し其れでも能く忍耐に忍耐して、霊的激戦を遁れようともせず、皆自分が神に於て当然負うべき十字架と覚悟して。最後に至るまでも能くも倦まずして奮闘をし続けられた。其の不屈不撓の勇猛心に至っては讃嘆するに余りある者であった。」(『新井奥邃先生』永島忠重)と述べている。

    次に、奥邃のキリスト教理解を如実に示す「信感」を紹介しよう。
     

    「キリストを信ずるは」
    蓋し予の基督を信ずるは、人に由りて信ずるに非ず、直に基督の信によりて基督を信ずる者なり。故に予の基督の復活を信ずるは是れ実に基督に由りて之を信ずるなり。パウロの伝ふる所のもの、予亦之を聞くと雖も、然れども予は必ずしもパウロに由りて基督の復活を信ずる者にあらざるなり。拠るところあり。別に有り。神の微言基督に在りて離れざる者、我が為に之を証す、予のキリストを信ずるは、即ち耶蘇基督に由りて之を信ずるなり。予は我が程度に於て基督の信を我が霊体に受け、既に之を受けて之を存養し、而して其の存養の度に従って又之を兄弟の能く受くる者に伝ふ。

     

    この奥邃の「信感」を見れば、奥邃のキリスト理解の度がいかなるものかは明白で、この辺りの消息は、留学僧「空海」や「道元」らに匹敵するものではないかと思う。
     

    新井奥邃は、アメリカはハリスの門下に学ぶうち、その目標の純粋性ゆえに、ついにキリストの信に到達して「見性」し、以来三十年の長きに亘って研鑽を重ね、機の熟すとみるや心に一大使命を抱いて帰朝したのである。而して帰朝せる奥邃の主眼としたものは、徹底したキリスト者としての雄々しき生涯を貫き通すことであり、欲を去り己を虚しくして、ひたすらキリストに従うこと(有神無我)であったのである。
     

    この新井奥邃の気高き生涯によって、明治維新に到るまでの日本文化(神・儒・仏)、即ち「東洋文化」(アジア文化の吹き溜まり)と、西洋文化とが、見事に十文字にクロスされて「東西文化の融合」がなされているのである。
     

    この見事なる融合は、新井奥邃が若くして漢学を学び、かなりの水準に達していたことと無縁ではない。異なる文化の融合には、自己の主体性が不可欠であるからである。
     

    最後に、新井奥邃の祈祷文を掲げてこの節を終わりたい。
     

    新井奥邃の祈り
    鳴呼、至高、至慈、至聖の父母上よ。我の人を赦す如く、願わくは、爾(なんじ)の大赦を行わるるが如く、我等をして亦能く大赦を行うことを得せしめ給え。
    鳴呼、願わくは、爾(なんじ)の内裏天国我等の中に充実し、、爾が御旨を内外に合わせて、我等の間に完成し、斯く宇宙の同胞をして、皆主の神に於て、大宇宙に完からしめさせられんことを祈り奉る。 アーメン


    【参考資料】
    知られざるいのちの思想家―新井奥邃を読みとく


    新井奥邃先生略伝(永島忠重)
    新井奥邃―公快共楽の栄郷を志向した越境者 (公共する人間 5)


    新井奥邃の思想 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈1〉)


    内観祈祷録・奥邃先生の面影 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈2〉)

    | 新井奥邃 | 13:48 | comments(0) | - |
    東西文化融合の旗手たち(一)新井奥邃−明治維新が生んだ、キリストの志願奴隷戦士−(3)
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      上より我等を召す微かなる声あり。「起ちて我に従え」と。之を聞けば仰がざるなし。之を仰げば、感じて其の愛の深きを讃嘆せずんばあらざるなり。ああ我に力なし。如何にして起たん。然れども誠に能く主に従はんと欲せば、必ず其の力を上より下し給はざるなし。(『奥邃広録』)

       

      3、日本史における新井奥邃の位置
      新井奥邃は1922年(大正11年)6月16日、77才でこの世を去った。帰幽後、今年(平成2年)で68年になろうとしているが、世の多くの人々は「奥邃」という名前さえ知らない。それは、新井奥邃の生涯が、真にキリストに倣い、キリストの志願奴隷として「謙」に徹した「隠者」そのものであったことによるが、門弟「永島忠重」の努力によって新井奥邃に関する著書が次々と刊行されていたこと、維新前後の海外留学生の研究や田中正造研究、新井先生記念会の会員らによる研究、奥邃門下の数少ない生存者、元早大教授・工藤直太郎氏の著書『新井奥邃の思想』等々によって、新井奥邃研究は、今日ようやく世の注目を浴びるに到った。

      新井奥邃の生涯は、世俗的にはキリスト者として「謙」と「祈り」に徹した静かなものであったが、反面、日々キリストの道を行ずる人としての激しい内面生活があった。そうした新井奥邃の日常生活や、その他の新井奥邃に関する資料を読むうち、新井奥邃は森信三先生が指摘されるように、日本史上稀に見るキリスト精神の体得融和者であり、私たち日本民族にキリスト教理解への大きな「架橋」を残した東西文化融合の旗手だと思えるのである。

      明治維新以後、日本の留学生たちが海外で学んできた学問や文化は、得てして観念上の知的理解に留まり、真に自己の血肉と化すところまで到達しなかったことが多く、夏目漱石をして明治維新を「外発的の開花」と嘆かせた如く、真に我々日本民族の文化として融和されていなかったように思われる。

      こうした状況の中で、新井奥邃のキリスト教理解は、キリスト教の真髄を「道」として体得し、イエス・キリストと一心同体となったごとくに思われ、私は新井奥邃に「東西文化の融和者」を見るのである。


      【参考資料】
      知られざるいのちの思想家―新井奥邃を読みとく


      新井奥邃先生略伝(永島忠重)
      新井奥邃―公快共楽の栄郷を志向した越境者 (公共する人間 5)


      新井奥邃の思想 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈1〉)


      内観祈祷録・奥邃先生の面影 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈2〉)

      | 新井奥邃 | 17:28 | comments(0) | - |
      東西文化融合の旗手たち(一)新井奥邃−明治維新が生んだ、キリストの志願奴隷戦士−(2)
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        嗚呼基督の道豈宏遠に伝ふるを欲せざる者あらんや。然れども之を伝ふる者一毫の欲あれば、即ち悪魔の奴となりて悪魔の道を伝ふるなり。不信者は罪軽し、信を装う者は罪悪尤も重し。(『奥邃広録』)

        2、新井奥邃メモ
        その後、森信三先生にお会いする機会に恵まれ、先生より京都在住の福田与先生を紹介して頂くなどのご縁により、「新井奥邃」なる人物は徐々にその謎のベールを脱いで、その真姿を現して来たのである。以下、新井奥邃に関する簡単なメモである。

        (1)慶応四年、戊辰戦争が起きるや、江戸より急ぎ仙台に帰参、用いられて「奥羽列藩同盟」の結成に奔走。

        (2)仙台藩が降伏すると同志と共に脱藩。函館は五稜郭に拠って官軍と抗戦することとなった。一方、ロシアの宣教師ニコライに会い、初めてキリスト教を知り、心を傾けてその教えの核心を学んだ。

        (3)明治3年12月、24才の時、友人金成善左衛門の紹介で、後の文部大臣、森有礼の知遇を得、アメリカ初代公使に任ぜられて米国に赴任する森有礼に伴われて、その留学生の一人として、かつて森有礼が、かの地で学び師事したトマス・レ−ク・ハリスのもとに森有礼にかわってキリスト教を学ぶことになった。

        (4)トマス・レーク・ハリスは、当代一の神秘主義者で、アメリカの地に共同体を設立して、毎日の労働を通して真のキリスト精神を指導した人である。

        (5)新井奥邃は、ハリスに従って、その最後の共同体、カリフォルニアのサンタ・ローザにあったファウンテングローブ(泉の森)で、後のブドウ王「長沢鼎」ら一団の同志らとともに新たに購入した広大なる原野を開拓すると共に相当の労働を分担しつつブドウ園の開拓、経営に従事し、この別天地に孜々として道を修めること三十年に及んだ。

        (6)明治三十二年八月、傘とカバンと二冊の英文自著を手にするの他、無一物にて飄然と帰朝した。

        (7)帰朝後は独居転々、アメリカでの過去を一切語らず、職に就かず、在米中、縁あって世話した青年の父親・平沼延次郎(横浜銀行頭取)より献資を受け、東京巣鴨東福寺跡に書生二十名余を収容する寮舎に住し、舎生らの指導に当たるほか、舎出身者とその家族、その他の人々を集めて講話を行い食事を共にされた。

        (8)先生は毎朝四時起床。身辺を清掃後、静座、瞑想数刻。其後は読書或は執筆。六時朝食。丁度夜明けのおそい時期であったから、二三の食卓には、ランプがともされ、床の間を背にした正面に先生、左右に学生が着席し、黙礼ののち箸を取った。朝の食事は何となく厳粛に感ぜられた。私は夜間は先生と同室であったので、それとはなしに、就寝前の先生の黙祷を窺い見たことがあり、その動作は厳粛にして、神秘的なところがあった。(中村木公『随感録』より)

        (9)渡良瀬川鉱毒事件で有名な義人・田中正造は、新井奥邃と交流があり、巣鴨の謙和舎をたびたび訪ねており宿泊もしている。そして正造は奥邃より精神的指導を受けていたと思われる。

        (10)奥邃は遺言して、自分を葬った土の上に墓碑を立てることを禁じた。自分の写真を一枚も残さず、生涯娶らず独身であった。

        (11)奥邃は1922年(大正11年)この世を去った。死後、弟子の永島忠重が奥邃の書いた文章「信感」をまとめた『奥邃広録』(全5巻)をはじめ、『新井奥邃先生伝』『新井奥邃先生の面影と其の談話』『新井奥邃先生』などの著書を刊行している。

        (12)新井奥邃に親炙し、またはその薫陶を受けた人々は、社会の表面に出て活躍した。参考の為その主な人々を掲げる。
        永島忠重    『奥邃広録』他の出版者
        中村千代松  代議士
        内ヶ崎三郎  早大教授、代議士、衆議院副議長
        中村秋三郎  田中正造の顧問弁護士
        布施現之助  医博、東北大学医学部長
        岡  通     医博、東北大学教授、甲南病院長、教会牧師
        相原一郎   文部省宗教局参与
        柳 敬助    洋画家
        江戸狄嶺   農政学者
        原田嘉次郎  牧羊家
        大山幸太郎  宗教倫理学者
        佐藤在寛   函館聾唖学校長
        岩住良治   農博、東大教授
        吉野作造   東大教授
        山川丙三郎  ダンテ神曲の翻訳者
        荻原碌山    洋画家
        高村光太郎  詩人、彫刻家
        野口米次郎  英語詩人
        内藤乾吉   大阪市立大名誉教授、内藤湖南の長男

        【参考資料】
        知られざるいのちの思想家―新井奥邃を読みとく
        新井奥邃先生略伝(永島忠重)
        新井奥邃―公快共楽の栄郷を志向した越境者 (公共する人間 5)
        新井奥邃の思想 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈1〉)
        内観祈祷録・奥邃先生の面影 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈2〉)

        | 新井奥邃 | 00:08 | comments(0) | - |
        東西文化融合の旗手たち(一)新井奥邃−明治維新が生んだ、キリストの志願奴隷戦士−(1)
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          今猶(なお)奴隷たる主の為めに、己(おのれ)亦奴隷の末に与(あずか)り得んことを志願する所以なり。予(よ)豈(あ)に自由民の如く、今日敢て闊歩するを願はんや。(『奥邃広録』)

          1、新井奥邃との出会い
          私が新井奥邃という聞き慣れぬ名前を初めて知ったのは、知人から借りた『全一学ノート』(森信三著)を手にした昭和54年の秋の日のことである。  

          『全一学ノート』には、

          新井奥邃(1846〜1922)明治維新後もっとも深邃な基督者なるも、その名は今日に至るもなお広くは知られず、真の隠者とは斯の人ならむ。  

          先生名は常之進。弘化三年仙台城下に生まる。幼にして俊秀、藩学に学び、江戸遊学を命ぜらる。大政奉還後、官軍東北討伐の際、危地を脱して五陵廓に立てこもる。後逃れて千葉県下に匿れ、やがて在京の友人金成氏の推挙により、森有礼より第一回の渡米留学生の一員に選ばれ米国に渡る。他はすべて大都会の大学に学びしも、先生はひとり聖哲ハリスのブドウ園に入り、労働しつつ道を修めること三十有年。  

          五十四才飄然として帰国。どの教会にも属せず、その句を引用して説教される事もなし。ただ「信感」(奥邃広録)の千言万語こそ、すべての聖書の生ける注釈であり、日常生活のすべてが生きた教説だった。  

          終生めとらず、独居転々。後有志の一人巣鴨に謙和舎を献じ、青年二十名と起居を共にし、七十余年の生涯を了え給う。けだし基督の僕として大謙深愛の真人というべし。  

          とあり、私は「新井奥邃」とは、一体何者であろうか?と、非常に興味をかきたてられたが、その時は訳の分からぬままに『全一学ノート』を閉じたのである。

          【参考資料】
          知られざるいのちの思想家―新井奥邃を読みとく
          新井奥邃先生略伝(永島忠重)
          新井奥邃―公快共楽の栄郷を志向した越境者 (公共する人間 5)
          新井奥邃の思想 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈1〉)
          内観祈祷録・奥邃先生の面影 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈2〉)

          | 新井奥邃 | 01:36 | comments(1) | - |
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