東西文化研究ノート

東西文化の融和体得者を育成せんことを建学精神とする両洋学園の創立者・中根正親先生の「両洋精神」と、国民教育の友とならんと「社団法人実践人の家」を創始された教育哲学者・森信三先生の「全一学」に魅せられて、「東西文化の融合は大和民族の世界史的使命である!」というテーマに的を絞って東西両洋文化の研究をしている管理人のブログです。
幻の東西文化融合論(3)日本民族東西文化融合母胎説
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    わが日本国の歴史を文化面に重点を置いて考えてみると、これまで常に海外に眼を開いて、外国の優れた文化・文物を摂取し、我が国、我が民族に、より適したものとなるよう取捨選択し、消化吸収に真剣に取り組み努力して来たものであるように思う。

    往古、遣唐使や留学生らの命懸けの大陸文化の摂取が行われたことはよく知られている。仏教・儒教をはじめとする宗教、哲学、倫理学などの学問や、工芸、織物、建築、その他を積極的に受け入れ学び実践に務めてきた。空海や最澄が有名である。中世もまた同様に大陸の文化文物を受容してきた。禅宗仏教の受容が有名である。近世では、鉄砲の伝来で象徴される南蛮文化を受容してきた。近年では、明治維新以降国運を賭けて、西洋の近代科学を果敢に摂取し受容してきた。精神文化の面では、内村鑑三や新井奥邃に代表される「キリスト教」の受容を挙げることが出来る。

    そして気がついてみると、そこに新たなる生命を賦与された「新文化」が誕生し、時と共に成長発展して根を張り、枝葉を広げて大樹となり、あるいは純化・洗練を繰り返して、まるでダイヤのごとく光芒を放って世界中の人々を驚嘆せしめるのである。

    こうした外国の文化・文物を闇雲に取り入れるかに見える日本民族の傾向は、長い歴史の上から見ると、わが国の文化・文物・生活に新しい活力を与え、発展・発達せしめて来たという特徴を有するように思えるのである。この日本民族の文化史上に脈打つこうした特徴を、私は「日本民族東西文化融合母胎説」と名付けたいのである。

    というのは、それぞれが異質である東西文化融合の営みは、単なる東西両洋文化の歩み寄りとか、東西両洋文化の折衷などという程度の生やさしいものではなく、一つ間違えば民族の存亡をすら左右しかねぬ厳しいものである。実際、異文化・異文明に飲み込まれて、この地上から姿を消した民族の数は数え切れないほどあるであろう。

    二つの異文化・異文明の融合とは、必然的に新たなる文化文明を生み出す母胎が、その好むと好まざるとにかかわらず、自己(おのれ)の対極にある異質の文化文明を自己(おのれ)の胎内深く取り込み受け入れるばかりでなく、月満ちてこの世に誕生するまで養生し、命懸けでこの世に生み出すという大きなリスクを伴う営みである。

    こうした命懸けのリスクを負った営みなくして、その東西の両極が切り結ばれた新たなる文化文明をこの世に誕生させることは不可能だと思われる。実際、日本民族は、これまで常に「融和者」即ち新文化・新文明を生み出す者としての輝かしい歴史を歩んできた。中国大陸の文化・文物・仏教・儒教を、西洋の近代科学・キリスト教を摂取し受容して我が国の新文化・新文明を生み出してきた。

    現在は、西洋近代科学文明という怪物を相手に、環境汚染や経済摩擦など総身傷だらけとなって、多くの犠牲を払いながら「東西文化の融合」を目指して闘っているのである。
     
    | 東西文化融合論 | 19:41 | comments(0) | - |
    幻の東西文化融合論(2)老哲学者との一夜
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      1979年(昭和54年)11月24日午後、当時、兵庫県尼崎市在住の教育哲学(全一学)者森信三先生(83才)が、京都にある「両洋学園」(高・中・小・幼)にやって来られた。目的は、両洋学園長、中根正親先生(理事長兼校長)と対談されるためであった。

      この日、森信三先生は、頭にはベレー帽を被り、背には小さな竹篭を背負ってというユニークな出で立ちで、校門前で先生を出迎えた教職員を驚かせた。  

      対談は両洋学園内の会議室で行われた。中根正親先生と森信三先生を引き合わせたのは、当時両洋高校教諭であった末吉耕造氏で、両者の対談に立ち会った唯一の証人である。後で末吉氏は、すばらしい内容のこの対談模様を録音しなかったことを悔やんでいた。  

      対談数時間の後、森信三先生の歓迎会を兼ねた夕食懇親会が、末吉氏宅(当時京都府綴喜郡田辺町)で開催された。参会者は、森信三先生の全一学に興味を持つ有志十数名で、そのほとんどが両洋高校の教員であった。  

      森信三先生は、元神戸大学教授で、西田幾多郎門下のユニークな哲学者、全集25巻を始め選集8巻、著作集10巻、続全集8巻の他、啓蒙書など多数があり、昭和50年「社団法人実践人の家」を設立。全国の多くの門人から慈父のごとく敬慕されていた。当時発行された書籍では『現代の覚者たち』(竹井出版・現致知出版社)の第一章に掲載されている他、昭和49年発行の『日本人と思想』(創文社、早大教授・山縣三千雄著)に、福沢諭吉や幸徳秋水、内村鑑三、夏目漱石、和辻哲郎、津田左右吉らと共に紹介されているが、その8人のうちの当時唯一の現存者であった。  

      その夜、森信三先生は83歳のご高齢と思えない程とてもお元気で、先生のご講話は人生全般にわたる興味深いものであったので、一座の者たちは感心したり驚いたりで、飽くことを知らなかったが、お話が佳境に入るや先生は、これから話すことは、文字にして発表することを控えて欲しいと前置きされて、私どもの度肝を抜くような、凄まじいお話をされたのである。  

      そのご講話の要旨は、「日本は、東西文化融合の世界史的使命を持つという私の著書に書いてある話のことだが、真の東西文化の融合は、十年や二十年外国生活を経験して異国の文化や人々に接したり、学問を修めた位の生やさしいことで達成できると考えているようでは甘いものだ。真の東西文化の融合は、たとえば西洋のある国に武力制圧・占領されて、公用語も学校教育もその占領国の言葉で行う、思想も文化も生活も徹底的に抑圧・管理され、日本の伝統文化は次々と抹殺され、男は収容所に隔離されて原野の開拓に借り出され、国中の生娘はその操を奪われて、民族は悲嘆・絶望・悲劇の末に、西洋の文化の本質がやや理解できるわけで、これ位の身につまされた体験を通してでなければ、真の東西文化の融合なんてものは実現せんのだ・・・」といった内容であった。  

      この日の森先生のご講話は、私には大変衝撃的で、その後、時を経るに従って重みを増して来るのであるが、「幻の東西文化融合論」と名付けて「東西文化の融合」を口にする時の自戒の語としている。  

      このご講話を拝聴した年の暮れのことであったか、ソヴィエトの大軍が突如アフガニスタンに雪崩れ込んで、武力制圧・占領してしまうという大事件が起きた。(1979年12月24日アフガニスタン紛争)この時私は占領されたのが日本でなかったことを神に感謝しながら、遠くアフガニスタンの人々の悲劇を思って、森先生のご講話をいよいよ迫真性をもって理解し得るに到ったのである。  

      森先生の上記のご講話は、極論であるが故によく事物の本質を穿っており、それは先生が「敗戦」を旧満州国の首都新京で迎え、つぶさに敗戦国民としての辛酸をなめ、命からがら逃げ帰るという、貴重な体験があるから言えることだと思う。

      | 東西文化融合論 | 13:48 | comments(0) | - |
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