東西文化研究ノート

東西文化の融和体得者を育成せんことを建学精神とする両洋学園の創立者・中根正親先生の「両洋精神」と、国民教育の友とならんと「社団法人実践人の家」を創始された教育哲学者・森信三先生の「全一学」に魅せられて、「東西文化の融合は大和民族の世界史的使命である!」というテーマに的を絞って東西両洋文化の研究をしている管理人のブログです。
東西文化融合の旗手たち(三)中根正親−教育革命に命を懸けて−(2)
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    教育革新宣言

                 中根正親
     

    元来、日本文化は輸入文化、模倣文化。

    民族精神は独立でも文化は従属、借りものである。

    これを逆転して主導自立の文化にすることが、明治百年を迎える日本民族の心意気であり、悲願でなければならぬ。

    微力の両洋学園が、五十年の長期にわたり建学の使命として、新教育樹立のため、学園の運命を賭して、研究実績に全力を傾注してきたのもその淵源は、実はここにある。

    その所産たる要体教育なる新理論は厳然たる科学性に立脚、世界のマンネリズムを強力に破砕する。

    およそ、今日の文化はアイディアの競争、新しいアイディアによって文化は向上し、世界は変動する。

    われらは、教育に関し日本人の創成した新しいアイディアの見本として、敢えて自薦、世界の教育アイディアに挑戦する。
     

    (「両洋学園教育革新宣言要体教育」1968年(昭和43年)11月2日発刊の京都新聞より)

     

    23才の若さで速記法の新案発明
    中根正親は長崎県島原市の生まれで、旧制長崎中学校、京都三高、京都帝国大学工科大学土木科に進み、大正3年、京都大学在学中23才の若さで画期的な速記法の新案発明をした。

    この速記法の発明は、当時苦学を余儀なくされていた中根正親が、京都大学嘱託速記者、松川梅賢氏の英文速記リーダーとして一日4時間ものアルバイトをしていたことに端を発する。当時を回想して中根正親は次のように述べている。

    明治四十四年の頃、当時私は第三高等学校二部二年に在学中であったが、ある朝、ふと京都日出新聞(現京都新聞の前身)を見ると、五行広告に「職あり人を求む」というのがあった。当時貧窮その極に達し、三食すら完全に得られない状態にあった自分にとって、電光のごとくその五行の文字が頭に入った。一種のすがりつきたいような踊躍を感じ、よく見ると、それは「学生の内職にふさわしいある事務の助手」というのである。私はその朝学校へも行かないで、先頭第一の功名者となるべく、早速白川の叡山登山口まで約一里に近い道を駆けつけた。当の広告の主人公は、当時京大嘱託速記者松川梅賢氏で、同氏がかねて練習中の英文速記のリーダーとして人を求めたわけであった。そこで一時間にわずかに六銭、一日四時間のリーダー生活をもって、やっと一日二食のみにありつき得て、しかも歓喜の声を挙げた当時の自分をいま想起して、まるで夢のようである。 このアルバイトがきっかけとなり、速記法に興味を持った中根正親は、特に速記の収益方面に於て有利なる事から、速記術を身に着けて楽に学資を得たいと言う考えから、速記の練習を始めたのである。中根正親は最初熊崎式速記の練習から始めたが、いくら練習をしてもスピードが出ないので、日本のあらゆる速記法を試したが不成功に終った。そこでピットマン式の英語速記法を研究してみたところ、 日本語の速記法が余りにも遅れていることに驚きと恥ずかしさを覚えた中根正親は、速記法の改良に興味を示し、、17回も基本線の書き方を変えるなど、苦心惨憺、夜に日に告ぐ研究に没頭した。その結果、遂にこれまでの日本語速記理論を根底から打ち破る「逆記法」や日本語の科学的分析の結果創出した「インツクキ法」などを盛り込んだ、日本で初めて人の話すスピードで書ける速記法を創案した。

    そこで、中根正親が、この新速記法の普及のため「中根式速記学校」を開設し生徒を募集したところ、応募者はわずかに1名であった。この時、世間の人々の速記法に関する無関心に呆れ悲しみ、「中根式速記学校」の看板を真っ二つに叩き割り、一生涯速記の教授はすまいと固く決意した。

    中根正親は、速記法の改良と普及は弟に任せ、大正4年、京都正則予備学校を開校し、教育者としての道に進んだ。
    | 中根正親 | 13:15 | comments(0) | - |
    東西文化融合の旗手たち(三)中根正親−教育革命に命を懸けて−(1)
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      教育は愛でなければならぬ
                                        中根正親

      教育は愛でなければならぬ

      教育は詩であり歌でなければならぬ

      教育は絵であり夢でなければならぬ

      教育はあこがれでなければならぬ

      教育は祈りでなければならぬ

      教育は真実でなければならぬ

      教育は力でなければならぬ

      教育は涙でなければならぬ

       

      1、学園葬は終った

      1984年9月11日、両洋学園名誉理事長、中根正親の両洋学園葬が、両洋学園内の講堂に於て、多くの参列者を迎えて、しめやかに執り行われた。

       

      安田理事長の式辞に続いて、多くの来賓、卒業生、在校生代表の弔辞が捧げられたが、その中で、台湾の卒業生(約千名)を代表して来日した林大津氏(元中山医学院付属病院薬剤部主任)の弔辞は感動的であった。

       

      「・・・はるばると海を越え、親元を離れての、文字通り笈を負っての学園生活、不安と戸惑いの中で、肉親の愛をはるかに上回る中根校長先生の教育実践。私たち台湾の卒業生の今日あるは、先生の温かい愛情のおかげで、先生のこの広大なる御恩は・・・」

       

      とうとう台湾代表の林大津氏は、感動の余り、嗚咽して弔辞を中断し、中根正親校長の遺影の前で大声を張り上げて泣き出してしまった。

       

      「・・・中根校長先生、先生の御恩は、私たち台湾の卒業生はいついつまでも忘れません。台湾の卒業生は一人残らず同じ気持ちです。中根校長先生、どうぞ安らかにお眠りください。」

       

      学窓を巣立って半世紀が経つというのに、しっかりした日本語で読み上げられた台湾代表の涙の弔辞、多くの参列者もまた目頭を押さえた。だが、安田理事長をはじめ、参列者一同が、どんなに声を大にして「中根校長、安らかに!」と申し上げたところで、おそらく中根正親は、「バカを言うな!このままで私が安らかに眠れると本当にお前たちは思うのか。教育革命貫徹の日まで、眠ってなどおれんわい。私は死んでもやめんのじゃ!」と言われるに違いない。

       

      肉体の制約から解放された中根正親の魂は、この時とばかりに天翔り国翔り、自由自在になって、大活躍されるに違いない。「両洋の森」を拠点とし、教育革命の鬼神と化した中根正親の雄姿が私には見えるようだった。

       

      ともあれ、学園葬は終った。この学園葬は伝統ある両洋学園の校史の前半をしめくくる一つのピリオドであり、新時代を迎える学園の烽火(のろし)でもあった。

      | 中根正親 | 14:35 | comments(0) | - |
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        『中根正親先生回想録』 

        中根正親先生回想録刊行会 1986年 A5版‐352頁 写真33葉

         

        Kaisorokutobira    Kaisoroku


        【内容】

        巻頭写真4頁 
        中根正親先生の写真
        中根正親中学時代の家族と一緒の写真
        両洋学院時代の学生と一緒の写真
        両洋学院(聖護院)の写真
        両洋中学(壬生上大竹町)の写真

          安田茂晴(両洋学園理事長)

        中根先生の業績  
        中根先生の業績 中根正親先生回想録刊行会
        中根先生追憶  森 信三(実践人の家理事長)
        数々の思い出  森田修二(京都府立大学名誉教授)
        独創、日本のペスタロッチ  島岡剣石(詩人)
        中根正親を世に出した山本良吉  川崎 明(桜美林大学教授)
        正親先生と私  石渡 潔(社団法人日本速記協会理事長)
        偉大な先生を偲ぶ  柴田澄雄(三遠文化協会長)
        中根恩師と私  陳 有諒(元台湾開南高級商工職業学校長)

        弔辞 
        巨星落つ  中根正親先生回想録刊行会
        学園葬式辞  安田茂晴(両洋学園理事長)
        広く教育界に貢献  川田平八郎(京都府私立中学高等学校長会会長)
        日本の速記界に大きく貢献  平塚啓次(社団法人日本速記協会会長)
        世界を股にかけての研究活動  羽鳥博愛(東京学芸大学教授)
        哀悼、中根正親先生  尹 応寿(アジア公論日本支社長)
        卓越した真の教育者  大石聿畿(生成会本部会長)
        ただただ悲痛の極み 藤岡団蔵(両洋学園同窓会会長)
        大先生を顧みて  竹島兼十郎(東京両洋会会長)
        永く御教訓を後世に  林 大津(両洋学園台湾同窓会代表)
        玄界灘を超える両洋精神 康 河俊(大阪両洋友の会代表)
        中根先生の訃報は、中華人民共和国でも報道された
        学園葬に寄せられた弔電(御芳名)

        回想
        恩師中根正親校長と私  中山吾一(カナダ聖公会牧師・キャノンゴードン)
        要体の種実らすは私たち後輩の責務  滝沢武久(電気通信大学教授)
        先生の天才性を確信  羽鳥博愛(東京学芸大学教授)
        先生が指揮された日本一のブラスバンド  辻井市太郎(元大阪市音楽団長)
        世の動きを常に先取  高畑正一(元京都新聞取締役)
        驚く暗示力と浸透力  木田道太郎(京都産業大学教授)
        中根精神の体得実践記  相原牧雄(切幡神社宮司)
        中根先生の思い出  駒井正三(守口市中学校長)
        恩師の光よ、永遠に 林 大津(台湾、中山医学院付属医院元薬剤部主任)
        先生の先見的創造  蔡 江来(台湾、屏栄高級商工職業学校長)
        両洋留学の日記  康 壬貴(台湾、国賓百貨行)
        両洋精神と共に永遠に  頼 錦城(医師)
        思い出かずかず  王 煥文(台湾、貿易商)
        み魂よ安かれ  林 承欽(医師、両洋高校校医)
        兄、再び帰らず  中根正世(中根式速記協会会長)
        中根正親 わが生涯の詩と真実  兼子次生(日刊工業新聞記者)
        他多数

        遺文集
        教育は愛でなければならぬ
        中根正親語録
        要体について
        教授法と解法
        中根式創案当時の思い出
        日本速記百年記念式典に於ける受賞挨拶

        年譜
        中根正親先生略年譜 

        文中挿入写真
        中根正親先生の長髪姿の写真
        旧制両洋中学ブラスバンド部員の写真
        大正3年5月大阪毎日新聞記事「新案出の速記術」
        大正13年2月京都日日新聞記事「京日クラス委託」
        日本速記百年記念式典に於ける受賞挨拶時の写真
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        東西両洋文化研究会
        事務局 鈴木

        | 中根正親 | 23:14 | comments(0) | - |
        両洋中学「京日クラス」について(2)
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          研究ノート
          京都日日新聞育英事業 両洋中学「京日クラス」について(2)

          十一、本社給費生委託校として両洋中学を選ぶまで
          さて、続いて翌大正15年2月21日の記事には「本社給費生委託校として両洋中学を選ぶまで 市内私立中学校に対する各方面 先覚者の忌憚なき批判をきいて 萬遺漏なきを期した」という見出しで両洋中学を育英事業の委託校に選定した事についての各界識者の意見を集めた次の記事が載っています。
           

          1、訓練第一主義の我社の理想に最適
          「本社の給費生六十名を委託すべき学校として私立両洋中学校を選定した理由に就いては詳細昨報の通りであって、要するにわが社の中等教育に対する理想即ち『訓練第一主義』を以て有為の中等国民を造らんとするには同校に委託するを以て最も適当なりと信じたが故である。しかも同校を選定するまでには各方面先覚者の意見を徴し、且つその市内各私立中学校に対する忌憚なき批判を求めて萬遺漏なきを期したこと勿論であるが、夫子人士の中には直接監督の任にある府学務当局者の如きあり一々その批判を本誌に掲載することを迷惑とされる向きが多々あるので今その二、三を紹介することにする」という説明があり、続いて4人の意見が掲載されています。それぞれが、当時の両洋中学及び中根正親先生についての特徴を物語っていますので、貴重な資料であります。


          2、軍事教育に対して全校挙げての熱 ―石川歩兵中佐の談―
          はじめは、「軍事教育に対して全校挙げての熱 他校には見られぬ所 軍事教育統轄の衝に当る石川歩兵中佐の談」の小見出しで両洋中学が当時、軍事教育に対して大変熱心に取り組んでいた事が述べられてある。特筆すべきは、体操や教練に対し中根校長自ら先頭に立って取り組む熱の入れようだったというところである。ここが、中根正親先生の両洋中学たる所以であり、これは、他校に見られぬ特徴だったといえるのではないかと思います。

          この軍事教練に対して中根正親先生から両洋学園在職中に、よくお聞きしたのは、昭和8年12月寒中の学校教練査察時の思い出話です。この話は旧制中第10回卒業の駒井正三先生(大正4年生まれ、昭和7年4月両洋中学4年編入、昭和9年3月卒業、守口第四中学校長・梶中学校長・関西女子短大教授・歴史)が「中根正親先生回想録」(169頁)に詳しく書き記しておられますので引用させて頂きます。

          駒井先生は「在学中最も強烈な印象」と前置きされ、「査閲のクライマックスは紙屋川を挟んでの、演習、白兵戦でした。泥田の中を進むのです。当時両洋中学の生徒は、勇猛邁進の精神、前に如何なる障害があるも突破する、突破せよと常々先生から言われていたものですから、そうした時には、より意気軒昂で、私達は両洋精神発揮はこの時ぞとばかり張り切りました。/ダブルの紺サージの制服で泥田の中を伏せ、または匍匐前進するのです。先生もフロック姿で、教練について来ておられた。
          その時一人の生徒が泥田に靴をとられました。その生徒は演習中ですから、靴にかまっておれません。見ると傍らの畦に先生が立つておられるのを見て、先生に『校長先生僕の靴を持って来て下さい。』と言って、靴をそのままにして前進しました。先生は泥田の中に入って、その靴を拾い、下げて学校まで持って帰られました。/教練が終り、査察官舞大佐、教官上島少佐の講評は最高で口を極めて、その勇敢さ、元気さをほめられた。最後に校長先生が、泥靴を下げて指揮台に立たれた。
          先生は開口一番『今日程私は嬉しく思った事はない、今日Y君は校長の私に泥田の中にある靴を拾って来いと言うてくれた。これはY君が私に親しみを持ち感じている一つの証拠だし、そして、今日という日、この日がいかに大切な日であるか、両洋にとってどんな日であるかを知って、私に言うてくれた。それが今、舞大佐の言葉となって出た。Y君にこの靴を返えそう、Y君』と大きな身体の先生が嬉し涙をうっすら泛べながら返された。私達生徒も皆ジーンとして、一瞬静まりかえったことが忘れられない。之が在学中の最大の思い出であります。・・・』と書いておられます。

          付け加えますと、この日、Y君は泥田の一点を指差しながら「校長、靴!靴!靴!」このように叫びつつ泥田の中を突進して行ったと中根正親先生が懐かしそうに語っておられました。大正15年と昭和8年と時期は少し後の話ですが、中根正親先生の両洋中学が軍事教練に寄せる意気込みは同じだったと思います。駒井先生が「在学中最も強烈な印象」と書いておられるように、中根正親先生は、訓練(軍事教練他)による教育効果の大きさを熟知しておられたのであります。石川歩兵中佐の談話の新聞記事は以下の通りです。

          「京都市内における各中学校の軍事教育を統轄せる陸軍省査閲官歩兵第九聯隊の石川中佐は語る。
          御社の御計画たる大育英事業は我国新聞界及び教育界に対して大なる○○を与うべく国家社会の為洵(まこと)に欣幸である。此の大育英事業の目的が訓練第一主義を以て進まれ真の人間を造るのが目的であると承って言い知れぬ痛快味を感ずる。
          軍事教育上から見たる市内中学校の優劣・・・それは今直ちに批評し論断することは困難である。同じ京都市内における中等学校でも軍事教育は実施に遅速があり例えば昨年の九月から実施した学校もあれば十二月から開始した所もあって一概に批評し得ない。私の査閲している私立中等学校は紫野、東山、立命館、両洋、聖峰、同志社の六校であるから市内中等学校全般に亘る比較講評は出来ない。殊に軍事教育実施の期間が同一でないので総括的にその優劣を講評することは非常に困難であるが学校当事者や生徒の軍事教育に対する熱の濃度如何によって将来を察知する事は必ずしも至難でないと信ずる。 右の内立命館中学、東山中学及び両洋中学の三校は軍事教育に対して最も熱心であるから最も将来を嘱目している。就中両洋中学は一風変わっていて生徒が折襟の制服を着用して教練を受けているから一寸見ると変に思われるが、軍事教育そのものに対しては前項を挙げて非常に熱心である。殊に同校長は教育に対して一見識を有し軍事教育実施以前から生徒の団体的訓練に対しては大に意を注いでいられただけに、軍事教育実施後は非常な熱心ぶりで体操や教練の如きは自ら先頭に立つという状態であるから自然と校長の熱が生徒に及ぼして全校挙げての熱心振りである。
          斯く軍事教育に対して両洋中学が他校に比して一日の長あるは熱そのものの然からしむる所で、此の熱こそやがては軍事教育の精神を徹底せしむるものであろうと信ずる。」


          3、川面府立師範学校長の談 ―行届いた訓育―
          「ゆき届いた訓育 校長は勿論だが生徒も努力 真に感心さされた事 川面府立師範学校長の談」の見出しで「訓育と言う方面なら両洋中学がイイと思う。生徒全体が非常に規律的である。自分も最初ドコの学校とも知らずにいたが高貴の方が御入洛になった際などに非常に立派な態度の学校があるので聞いてみると両洋中学だとのことであったから感心して自校の生徒を集め『斯様な態度は本校のなすべきことではないか』と話したこともある位だ。校長も知っているがこれがまた熱心な人で自らタクトを振って団体を指導している。教員も過般歴史の協議会を開き各学校主任が集まったが同校の歴史教員は却々(なかなか)傾聴すべき議論を吐いていた。尤も他の学校と比較するとなればその材料を持たない自分には困難であるが兎も角よくアレまでに訓育が行届いたものと感心している。随分中学校時代は生意気なものでそういう教育を嫌がるものであるのを茲(ここ)まで訓練したものである。校長は無論、生徒としても努めたものである。」

          川面師範学校長のこの談話は、中根正親先生の訓育について触れた貴重な文章であります。まず、「自らタクトを振って団体を指導している。」この一文は、中根先生についての記録として、当時、国内最大唯一のスクールバンドを擁していた両洋中学の片鱗を物語る記録として重要です。校長自らがタクトを振れば、楽団の士気は弥が上にも盛りあがったであろうと想像されます。

          次は、「生意気な」「中学生を」「ここまで訓練した」という何でもないような言葉でありますが、学校教育において「徹底した訓育」が如何に困難な事であるか、小中学校や高校の教壇に立った経験のない方でも、自ずから理解して頂けると思いますが、中根正親先生の教育者としての素晴らしさの一つは、中学教育に於て「徹底した訓育」を実現しておられた事であります。
          この中根正親先生の「徹底した訓育」の源泉については、私は通常の「教育的信念」という程度の言葉では足らず、中根先生が「教育に全人生を懸けておられた」その全人格から滲み出たものであって、教育の任に当たられる方々は此処に注目して頂きたいと思います。

          私は中根正親先生の最晩年の7年間を教員としてお仕えしたのでありますが、中根正親先生から、90歳の老人とは思えない教育への「情熱」「気迫」「真剣」「熱中」「専念」「こだわり」等々を日々感じていました。
          当時、新入生が入学してくる4月には、毎年、英語・数学の「基礎学力テスト」がありました。中根正親先生は当時一学年100名から150名の生徒の全答案を一晩かけてご自分一人で採点され、平均点まで出され、時には問題別の成績結果の分析までされ、翌朝の職員朝礼で発表されるのです。

          新米教師の私どもはその教育に懸ける「壮絶なる雄姿」を驚きと感動で眺めていましたが、大正15年頃の40代の中根先生の「訓育」が如何なるものであったか、想像を絶する凄まじい「徹底さ」であったと思います。
          実際、この「京日クラス」の生徒の一人であった「木田道太郎先生」(京都産業大学名誉教授・現存)は、『京日クラスに学んで』のなかで、「このように生涯、教育人生を続けることが出来ましたのも両洋中学の京日クラスで熱心に教えて下さった恩師中根正親先生のおかげです。私はこれまで中根正親先生を怖いと思ったことは一度もありませんでした。愛情深い、本当に心の温かい先生でした。心の温かい、一人一人の生徒に愛情を一杯注いで下さる先生でしたので、時に、先生から拳骨を頂いても反発する気は起こりませんでした。/実際ある時は、クラス全員が中根先生からビンタを頂戴すると言うこともありましたが、誰一人として先生をうらむ者などおらず、むしろ先生の期待に応えて頑張ろうと思った程でした。」(九、愛情深い先生の鉄拳)と述べておられます。
           

          4、英才教育には適当だ ―亀田市教育課長語る―

          次に、「特殊の教育方針を以て進む両洋中学 英才の教育には適当だと亀田市教育課長語る」の見出しで、京都市の亀田教育課長の談話が載っています。ここでは、当時の有名な私立中学を比較してそれぞれの特徴を述べている点、大変貴重な資料といえます。
          「京都市内における中学校の優劣について忌憚なき批評を下すことは自分としては躊躇せざるをえないと同時に孰(いず)れも一長一短の得失があり今俄(にわか)に論断することは出来ない。併しながら之を概括的に見れば教育程度の最も高いのは同志社中学で次いでは立命館中学及び平安中学等であろう。特殊の教育方針を以て進んでいる学校を求むれば、先ず両洋中学に指を屈せねばならぬ。
          即ち同志社中学や立命館中学及び平安中学等は相当歴史も古く近年基礎も鞏固になり従って比較的財政が豊かで経営に無理がない関係から教職員の選択も充分行届き生徒の教育程度が他に比して高いのは当然である。之に反して両洋中学は歴史も浅く基礎も未だ充分鞏固であるとは言えぬが校長が教育に対する一風変った一家の識見を持ち全校の生徒に自己の教育方針を徹底せしむることに専念しているから英才教育には或いは適当かも知れぬ。
          御社の育英事業が訓練第一主義を以て将来の実社会における有為の偉才即ち真の人物を造り上げるのが目的ならば五箇年の長きに亘って其の教育を託される中学は先ず最初に当たって余程慎重なる態度で選択されんことを希望するものであるが、前に述べた学校を更に其の一々に就いて論評するなら同志社中学は教育程度は高い代りに多少の宗教味があり立命館中学は同校の主事が岐阜県時代に県下教育界の名物男と言われただけに校風や教育方針も大いに見るべきものがある。
          更に平安中学は多少の宗教味はあるが夫(そ)れが全部と云う訳ではなく人格主義の教育方針を執っている。両洋中学は前述の如く他校に比較して校長が信念の強い人であるから非常に変った教育方針を執り目下教育界注目の焦点となっている程で、兎に角同校は茲(ここ)数年間が試練時代と見られている。」
          この談話中、注目すべきは「特殊の教育方針」「校長が教育に一家の識見を持ち」「自己の教育方針を徹底せしむることに専念」「校長が信念の人」「教育界注目の焦点」などで、中根正親先生の「教育者としての人となり」をよく物語っていると思われます。
          当時、京都にあった中学校といえば、この中に出てくる「同志社」「立命館」「平安」の他に「東山」「花園」「大谷」「東寺」「聖峰」「京都烏丸」等、それぞれ古くからの歴史を持つ学校であったが、「両洋中学」はこの中では、一番後に(大正4年京都正則予備校として)開校された学校であった。
           

          5、あらゆる点から考えて両洋中学の外なし ―山本府立一中校長は語る―

          「凡(あら)ゆる点から考えて両洋中学の外なし 特に訓育に異彩をはなつ 面白い結果を生もう 山本府立一中校長は語る」の見出しではじまる府立一中の山本校長の談話は、「特殊な教育方針」「直接生徒に交わって常に奮闘」「経営上において独立した手腕を自由に揮える地位」などに注目頂きたい。
          「訓育を第一とした特殊な英才教育を目的とせられている上から見ると府下十数の私立中学の中で最も貴社の企画に適合するのは創設は新しいが両洋中学だろうと考える。同校の校長は未だ教育者としては年も若く経験も浅いがしかし却々(なかなか)しっかりした人で、育英に熱心であると共に、特殊な教育方針をもって直接生徒に交わって常に奮闘しているから貴社の方針に対しては充分理解がもてることと想像される。殊に中根校長はその経営上において独立した手腕を自由に揮える地位にあるから誠に好適と信ずる。その上、訓育方面には陸軍中佐をはじめ軍人を三人も置いているのだから、その点に遺憾はないと思うし教師の人達も皆立派な人が揃っている。学校の設備も充分だから一学級を新設することも不可能ではあるまい。其他に同志社、立命館、平安など社会的信用のある中学校は沢山あるが、貴社の方針の下で委託される上から云えば両洋中学あたりが引受けると面白い結果を生むだろうと期待される。」
          この、府立一中の山本校長の談話は、大変貴重な資料で、両洋中学の「経営」について言及している点、大変重要である。「殊に中根校長はその経営上において独立した手腕を自由に揮える地位にあるから誠に好適と信ずる。」の一文は、京都日日新聞の育英事業の委託校として選ばれた「大きな理由」を示唆するように思う。
          実際、中根正親先生の教育者としての特長の一つは、70年の長きに亘る学校長生活を支える、その根底に「ワンマン理事長(経営者)」としての裏打ちがあった事を銘記しておきたい。言わずもがなの常識ではあるが、雇われ校長では、己の教育信念を貫徹するのに限界があるのである。
           

          十二、革新的選抜試験 ―能力と理解力を試す 画期的な入学試験―
          さて、同じ日の記事に、「能力と理解力の試験 得点本位の方法を排して 革新気運を投ずべく我社が選べる 選抜試験の具体的方法」という見出しで入学試験の方法についての説明記事が載っています。
          大正15年のこの時期に、記憶力中心の「得点本位」の試験を排し、「能力と理解力」を試す入学試験が行われていた事自体、驚きであるが、京都日日新聞の育英事業でこの革新的方法が始まった事も面白いと思う。教育界はどちらかというと保守的、閉鎖的な世界である。そのマンネリズムを打破せんとする意気込みが、この事業の根底にあり、先ず入学試験から始まった事に注目して行きたいと思います。
          即ち、「我社が秀才教育を施すべき六十名の選抜試験は愈々来る三月五日(試験場は追って発表)執行の予定であるが、之が試験方法も全然従来の伝統と型とを破り、旧来の得点本位の試験方法を改めて『能力の試験』『理解力の試験』を行うこととした。即ち従来にあっては小学校で学び得たる小学教育の結果を試験する記憶力の試験であったが、斯くの如きは徒に試験のための試験勉強に陥り真にその児童の能力理解力の試験とはならないが故にわが社は此の際入学試験の方法に対しても一革新の気運を投ずるために旧型を捨てて児童の「素質本位の考査」「能力本位の考査」を行うこととしたのである。而して試験科目は
          一、国語を中心とする能力考査 二、算術を中心とする能力考査 三、綴り方 四、人物考査 五、体格検査
          の五科目に分かち(一)(二)の二科目に対しては受験生を試験場に集合せしめ之に一定時間の間、或いは国語、算術に関して実際教授を行い、その教授に基き児童が如何なる程度に之を理解し得たるやの能力を考査するものであるから、受験生は予め何等の試験準備、試験勉強を要せず、唯試験時間内に答うれば足りるのである。
          尚、綴り方に就いては一定の課題を示し之に関して児童の能力を考査するのであるが、之を要するにわが社の新試験方法は従来の小学教育の記憶力を見んとする旧型を改めて小学教育において纏め上げられたる学力、能力、理解力の全体に亘っての考査を主眼とするものであることを十分に理解せられたい。」
          というもので、これは、当時としては画期的な入学試験ではなかったかと推察します。知識の記憶力のテストをせず、素質・能力・理解力をテストする方法として、斬新な試みが為されたのである。その詳細については、後日の記事に譲りたい。
           

          十三、締め切り期日延期の囲み記事
          この日の記事に、囲みで「本社育英事業の申込締切期日はいよいよ今二十日の予定であったが屡報の如く一種の秀才教育を行わんとする主旨の上より成るべく多数の応募者中から選抜するの必要があり、今尚申込を躊躇している向きも可なり少なくないとのことを聞くので締め切り期日を更に来る二十五日まで延長する事にした。わが社は此の際優秀児童の多数奮って応募せられん事を切望する。」の記事が載っている。
           

          十四、責任の重大さを痛感 ―中根校長決心を語る―
          貴重な、若き日の「中根正親先生」の教育論

          続いて、翌2月22日の記事に「委托をお引受けして今更 責任の重大さを痛感 死生を賭して期待に副うべく 細心の注意をもつて邁進 両洋中学の中根校長決心を語る」の見出しで「本社選抜の給費生を委托すべき両洋中学では中根校長も非常に重き責任感に駆られ職員会議を開き各員の決心を確かめた上初めて之を引受けることになったのであるが、右に就いて中根校長は語る。」


          1、精神本位の人材を作ることに全力を傾倒
          「元来公立学校と私立学校ということに世間は非常に誤解を持っているようであるが、之は畢竟教育家自家の罪であって、私をして云わしむれば、私立にも責任はあるが公立にも欠陥がないでもない。同じように普通教育を受ける以上ソコニ区別のあろう謂れはない筈だが、世間は矢張り誤った見方を以て私立学校を卑しめる傾向がある。之というのも設備において優劣があるからで、学校を商店の陳列棚と同様に考えている錯誤である。私は此の意味において精神本位の人材を作ることに専ら全力を傾倒し威力ある人間、圧力に富んだ人格者を造って社会から尊敬される人物を得たいと常に其の方針に邁進している。
           

          2、死生を賭して細心の注意を払う決心 ―人間を作るには中学程度だけで結構―
          然るに今度御社の委托を受くるに至ってヨリ以上重き責任を感じ、幹部の諸氏にも此の精神を伝えて御期待に背かざらんことを誓っている次第で、固より主張を枉げず更に進んで之がために一切自分というものを考えず、死生を賭して六十名の偉大な人物を造ることに細心の注意を払う決心である。ソシテ御社の主張通り公私の区別を社会から撤廃せしむる主旨を此の機会において貫徹したいと思う。人間を作るには強(あなが)ち高等学校、大学まで進んで行かなくとも中学程度だけで結構で、寧ろ社会へ出て間に合う人間、欽すべき人格者を造り上げることがヨリ必要である。
           

          3、平民から偉人を沢山造りたい
          中学校が創設せられて既に五十年、全国に散在する数は夥(おびただ)しいものだが、此の間にどれだけの偉大な人物を輩出したか、恐らく日本ほど偉人に乏しい国はあるまい。申すも畏(おそれおお)きことながら明治聖帝は世界的の大偉人に在(おわ)しますが、併し人民から出た偉人は洵に以て少ない。豊公の如きは勿論偉人に相違ないが、夫(それ)を今日から見ると社会の制度や組織が違うので直ちに現代の人を威服せしめる訳には行かぬ。
          ソコへ行くと外国にはどの国にも夫々偉大な人物を古今にもっているがために、其の国民は非常な誇りを持ち心強い生活をしている。之に反して日本には遺憾ながら其の誇りがない。洵(まこと)に卑下の多い国民である。是等に鑑みて、私は平民から偉人を沢山造りたいと思う。
           

          4、私立学校向上の動機となるよう、責任の重大なる事を痛感
          御社の委托生も此の見地よりして有終の美を収めたいのである。随って本年入学すべき他の生徒も此の緊張した気分を以て教養されるのであるから幸福であり同時に上級の生徒も全校挙って此の刺戟の生む緊張から一般に非常な好結果を齎(もたら)すことと、そぞろに欣快に堪えない次第であるが更に他の私立学校全体が間接に社会の誤解を釋(と)いて向上せしめる動機となり、始めて御社の主張も透徹されることとなるであろう。何(いず)れにしても我々は責任の重且つ大なることを痛感せざるを得ない。」

          中根正親先生は、教育者として実践に継ぐ実践に努められ、また一方では、要体教育と呼ばれる「新教授法」を、寸暇を惜しんで研究実践されたため、七十年という長期間学校長の職にありながら、「要体」他の冊子程度のものを除き、教育に関する著書を残されなかった。しかるに中根先生が雄弁家であった事は有名で、教え子たちが異口同音に回想している通りであるが、その若き頃の演説内容は、弟さんの中根正世先生が速記で筆記されたものが残されているやに風聞しているが、今の所公表されていない。そういう中で、この記事は、中根正親先生の教育論として、真に貴重である
          (1)中でも特に注目すべきは、「学校を商店の陳列棚と同様に考えている錯誤である。」と述べられている「学校論」である。設備の面で、当時私学が劣勢に置かれていた事は周知の事実であるが、「教育は設備ではない教育者だ」と断言しておられるのである。
          (2)次には、「人間を作るには中学程度だけで結構」の一句である。これは、教育者としての、中根先生の自負と読むべきであって、大学教育を否定されているのではない。「社会へ出て間に合う人間、欽すべき人格者」を育成する為には、中学教育が如何に大事かと言われているのである。「中学の教育」で十分社会人として活躍できる人材を育成する事こそ「中学校」の使命であると主張されておられるのである。
          (3)次は、「偉人を育成したい」という教育目標である。ここで云う偉人とは、高位高官に登った世俗の成功者を言うのではなく、「天地の間一人立つ」「矜持を持った」「大人物」をいうのである。中根先生のこの教育信念は、後年、現実のものとなり、先生の燃えるが如き訓育を受けた多くの教え子が、各方面で偉大なる人物として活躍されている。個々の教え子については、別の研究テーマを設けて触れて見たいと考えている。
          (4)最後は、京都日日新聞の狙いである「私学の向上」についての抱負と決意である。実際この時期の私学の地位は、公立に入れない生徒の受け皿的存在であったので、中根正親先生は私学の向上発展の為に奮起しようと言われたのである。
          今日の発展した私学の姿からは、とうてい理解できないことであるが、この当時、家庭環境に恵まれ学業優秀な人物は、一般的に私学を選ぶ事はなかった。そういう時代背景の中で、京都日日新聞の委託校として選ばれた両洋中学の校長として、責任の重大さを感ずると言われているのである。この先生の決意は、五年後の京日クラスの卒業生の進路に反映され、当時の難関校と言われた京都三高に三人の合格者を出すなど、大きな成果を上げておられるが、この件に関しての詳しい研究は、後の章に譲る。
           

          十五、安達待賢小学校長の談 ―熱烈火の如き熱心と倦まざる努力―
          同じ2月22日の記事に、「両洋中学なら誠に申し分はない 最も多数の優秀生を推薦した安達待賢小学校長談」の見出しで、次の記事が載っている。
          「市内八十三校の中でも最も多数の優秀児童を推薦した待賢小学校の安達校長は、委托校が両洋中学校に決定したについて語る。
          私の学校では、毎年百五十名の卒業生を出しますが優秀な児童で中等学校に入学出来ない不幸なものも可也あって、商店の丁稚などにゆくのが多いが今回貴社が、京都で空前の計画を発表されたので、逸早くこの好機会に一人でも多くの志願者を推薦したいと出来るだけ多数をお願いした次第ですが、中に本年の卒業生中に最優良生のあることは私のひそかに誇りとしている次第です。
          志願した児童の父兄等は最初から貴社を絶対に信用して私に推薦を依頼されたので、愈々学校が決定して更に、幾多の希望を持たれていると考えます。私は親しく両洋中学校に就いて研究したことはありませんが、中根校長その人のことに就ては可也よく知っているので、その熱烈火の如き、熱心と倦まざる努力を以て常に教育に腐心しておらるる同氏を校長に戴く中学校の事ですから誠に申し分ないことと考えます。
          現在創設の日未だ新しい同校のことだから或はその施設の点で歴史の古い学校に劣る点はあるかも知れませんが、中根校長の崇拝すべき努力と御社の信用とによって数年後には恐らくは第一流の学校として斯界に輝く事と信じます。」

          伝統ある「待賢小学校」の安達校長から、「中根校長その人に就てはよく知っている」「その熱烈火の如き、熱心と倦まざる努力を以て常に教育に腐心」「誠に申し分ない」「中根校長の崇拝すべき努力」「数年後には恐らくは第一流の学校」という最大の讃辞を与えられている点、貴重な資料である。

          日本の歴史上、このように地元の小学校長から、厚く信頼された中学校長が幾人あったであろうか。この記事は、そういう観点から貴重な資料である。
           

          十六、京都帝国大学新村出博士語る ―英才教育を行うためにはまことに適材と適所―
          さて、続いて翌2月23日には、「英才教育を行うためにはまことに適材適所 特に両洋中学を選ばれたのは 貴社の真剣味を物語るものだ 京大新村出博士語る」の見出しで、
          「京大文学部教授新村博士は本社の育英計画発表当初から極めて興味をもち、其の実現に多大の期待をかけていたが愈々委託学校が私立両洋中学に決定したについて語る。『両洋中学の中根校長とは十数年来の知人であの聖護院の裏で小さい校舎に数十人の生徒を収容して小規模の中学校をやりはじめた頃からの同君を私はよく知っている。仕事に却々熱心な人で、その教育ということには極めて天才的能力の持主である。当時小さな校舎で、殆ど寝食をわすれて個々の学生について授業をやっている有様を見て私は本当に感心したものだった。
          又その教え方の適切にして簡明なところは真に得難い教育者の典型であると考えている。しかし何といっても大きな財的背景も古い歴史も有(も)っていない学校のことであるから、いかに立派な校長だといって世間的には余り評判されなかったことも無理ではない。それにも拘らず、且つまた市内十数の立派な設備と長い歴史をもっている所謂信用の厚い中学校の中から特にこの両洋中学校を選定されたということは、貴社が如何に細心にまた周到に広く各方面に亘って学校の調査をせられたかということを裏書するもので、私は貴社の真剣味に驚かざるを得ないのである。
          最近の両洋中学でドンナ教師が如何なる教授法をやっておられるかは私は詳しく知らないが、しかし私の研究に直接関係の深い英語について考えて見ると、中根君自ら案出した極めて巧妙な教授法をやっているから、少なくとも他の学校に比して決して劣らないと思う。その他数学にしても国漢にしても、あの熱心な中根君の教育精神によって導かれている以上は申し分はあるまい。あの学校は他の学校のような経営方面に複雑な関係をもたず、中根君が自由に自分の思う通りにやってゆける組織だから、貴社の今回計画されたような優秀な委託生を引受けて特殊な教育を行うには洵に適所を得たものと考える。 兎に角貴社が京都にとっては強めて有意義なしかも長年月に亘って重大な責任を負わなければならない立派な計画を実行するに当って、かくも慎重に調査して、しかも当代稀に見る熱意ある教育者をその校長にもつ両洋中学校を選ばれたことは、一般教育界に甚大なる刺激を与え、且つその覚醒を促進せしむるものとして感謝の外はない』云々。」
          新村出教授(1876年〜1967年)といえば、「広辞苑」「言林」等の著者としてよく知られた言語学の大学者である。この新村教授と中根先生の関係については「新村出全集」第5巻月報(昭和46年2月発行)に中根正親先生が「思出の記」という一文を寄せておられる。

          その「思出の記」によれば、大正3・4年の京都大学生の頃、夏期講習会で新村教授の「比較言語学」のご講演を拝聴されたご縁で、その頃新案出の「英語訳学解析法」についてご教示を仰いだ所、種々ご指教の上、大正7年3月の京大言語学会にて研究発表するようにとのお勧めに応じて発表した所、研究発表の好評であったことに反比例して、この事件が元になり「反逆工科大学生」として「諭旨転学科」を命ぜられたので決然と自主退学され、そこから本格的に「新教授法の研究」に踏み込まれる事になったのであります。新村先生はそういう事情があったためか、その研究に当っても、また研究母体である両洋学院(中学)の設立に当っても最大の支援者であった。右の新聞記事の「新村出教授の談話」の要点は次の5点である。

          (1)中根校長とは十数年来の知人である。
          (2)教え方の適切にして簡明なところは真に得難い教育者の典型である。英語 については巧妙な新案出の教授法をやっている。
          (3)細心周到で広く各方面に亘る調査は、新聞社の真剣味に驚いている。
          (4)経営面で中根校長が自分の思う通りにやってゆける組織である。
          (5)当代稀に見る熱意ある校長の両洋中学校を選び、教育界に甚大なる刺激を 与え、覚醒促進せしむる。

          天下の大学者のこのような絶賛とも言うべきお墨付き的学校評は、委託校に選ばれた両洋中学のみならず、委託校を選定した「京都日日新聞」からも歓迎されたことが理解できる。「天は自ら助くる者を助く」京都日日新聞育英事業にとって新村教授の談話は「天恵」の一語に尽きるのではないだろうか。
           

          ◎終わりに

          以上の、京都日日新聞の育英事業の委託校として選ばれた事についての「両洋中学評」と「中根校長の決心(教育論)」は、よく中根正親先生の教育者としての人となりを物語っていて興味深く思いました。これを一言でまとめるとすれば、中根正親先生は、この時代における突出した「異才」を発揮して活躍しておられた「新進気鋭の熱血校長」であったことの一端を証明し得たように思います。
           

          『中根正親先生回想録』特価販売サービスについて

           

          | 中根正親 | 13:01 | comments(0) | - |
          両洋中学「京日クラス」について(1)
          0
            研究ノート
            京都日日新聞育英事業 両洋中学「京日クラス」について(1)

            一、恵まれない少年よ来たれ
            1、京都日日新聞を繙く
            大正15年に、京都新聞の前身である「京都日日新聞」が実施した育英事業いわゆる「京日クラス」について、中根正親先生が懐かしそうにお話しされるのを両洋学園在職中よくお聞きしましたが、実のところ、その詳しい内容については、想像を逞しくするだけで、よく分かりませんでした。京都日日新聞社が実施した育英事業である以上、必ず新聞記事に記録があるはずだと推察出来ましたので、私は先ず、京都日日新聞を繙いて見ることにしました。「中根正親先生回想録」によれば、大正15年の2月24日と4月11日に記事があると出ていましたので、大正15年2月の京都日日新聞を調べてみました。

            2、京都日日新聞育英事業の主旨について
            すると、早速2月13日の夕刊に「創立十五周年記念 我社の育英事業 60名の子弟を選抜 中学教育を完了せしむ」の見出し文字が目に飛び込んで来ました。(旧仮名使いは新仮名遣いに改め、適宜読み方や句読点、送り仮名を補いました。不明の文字は○で現しました。)記事本文を読みますと(以下記事の紹介をこの研究ノートの主眼点にしていますので、煩雑ですが関連記事は全文掲載します。)

            「現時義務教育を終えたもので、可惜(おしむべき)英才をもちながら、周囲の境遇、家庭の事情等のため、進んで中等学校に入るを得ざる不遇の少年は、随分夥(はなはだ)しい数に上る。而して之に対する施設は、屡(しばしば)其の必要を唱えられながらも、未だ不幸にして其の実行されたことを耳にしない。

            而も官学万能の事大思想は依然としていたいけな小さい頭を悩ましめつつある。此現状に稽(こた)うる所あり、我社は創立十五周年記念として是等不遇の子弟六十名を選抜し、京都市内における最も特色ある私立中学に入学せしめ、修業年限五年間を通じて授業料、教科書及び被服等の一切を給与するの計画を樹てた。蓋し埋もれんとする英才を養成し、聊か国家、社会に貢献せんとする微衷に外ならない。志望者は下記規定に基きこの際躊躇なく申し込まれたい。」というもので、下記規定には、

            一、資格 京都府下に在住し尋常六年卒業以上の学歴を有する者(履歴書○○学校長の証明を要す) 
            二、人員 六十名 
            三、申込 二月廿日限 
            四、試験 三月五日 場所並に試験委員は追って発表 
            五、学校 調査選定の上試験前に発表す
            六、給費 被服、教科書、授業料
            七、特典 成績抜群の卒業生は更に上級の学校に入学せしめ、なお海外に留学せしむることもあるべし
            八、卒業 給費生は卒業後本社に対して何等の義務を有せず

            という内容が出ていました。この育英事業の要点をまとめますと、
            (1)才能をもちながら進学に不遇の少年が対象
            (2)特色ある市内の私立の中学校に委託して教育する
            (3)京都日日新聞創立十五周年記念事業の一環
            (4)五年間分の被服・教科書・授業料の給費を行う
            (5)一切の義務なし

            ということになります。これで、京都日日新聞の育英事業の主旨が解明出来たと思います。此処で強調しておきたいのは、官学志向の当時の社会にあって私立中学を委託校に選んだ事でありますが、委託するに足る私立中学が存在せずにこの企画はあり得ないと言う事です。それにしても、京都日日新聞社は、今を去ること77年前に、素晴らしい育英事業を計画したものだと感心します。

            3、当時の少年苦学生の現実
            参考のため、当時の少年たちが、特に不遇な境遇にありながら、向学心旺盛な少年たちがどのように苦労しながら上級学校への進学の夢を実現していたか実話を元に述べてみたいと思います。

            大正7年の3月のことであります。向学心に燃える一人の少年(満令14歳6ヶ月の)M君は学問を志し、郷里愛知県蒲郡市の楠林山安楽寺を後に京都へ出て参りました。

            この少年M君は、満9才(小学校3年)の時、事業に失敗した父親が病気で急逝した為、一家離散となり、M君はお寺へ預けられ、厳格なる修行の傍ら、少年僧侶として法事や葬儀などの寺務をこなし、小学校を優等で卒業。その後、向学の念止みがたく、通信教育(中学講義録)で中学の課程を独習。数えの15才となるや、暇を得て上洛。当時、寺町三条にあった新聞店に住み込み、早朝午前3時半起床、京都駅まで空の荷車を引いて新聞を受け取りに行き、帰りは登りの坂道を荷車一杯の新聞を汗だくだくとなって曳き、新聞店に到着するや直ちに自分の配達する新聞約3百部を畳んで配達に出発、配り終わるや朝食、登校、午前・午後と学習を終え新聞店に帰宅。また、夕刊を3百部ほど畳んで配達、夕食という、少年には過酷な毎日の生活状況でありました。

            しかるに、M君は、このような涙ぐましい努力にもかかわらず、学費を払うと昼食が食べられなかったと言うのであります。それで昼食の時間になると、ひとり教室を抜け出し校庭で時間をつぶさねばなりませんでした。これが当時少年苦学生たちの現実でした。育ち盛りの少年が学問を志すが故に、一日二食で過ごしていたと言うのです。(三浦芳聖著「神風串呂解明」121号より要約)

            このような時代背景の中での京都日日新聞の育英事業であったことを念頭において頂きたいと思います。

            二、中学校の発表ちかし
            1、「時ならぬ波紋」―府下の小学校及び保護者の反応―
            続いて2月14日の記事には、
            「本社特選生を入学させる 中学校の発表ちかし 申込期を前に府下の百数十校が 慎重人選を重ぬ(ね)る推薦生 父兄を中心に時ならぬ波紋起る」という見出しがあり、記事本文は
            「我社創立十五周年記念事業として曩(さき)に発表した府下在住の小学卒業児童中、六十名を選抜して五ヶ年間本社の負担の下に育英する計画は、一般府民の異常なる讃辞と共に多大の刺激と感激を教育界に与えている。殊に直接児童教育の衝に当っている府下百数十の小学校では、二月廿日の申込期限を前に各校長がそれぞれこの画期的育英計画をして有終の美をなさしめ、将来の育英事業に範を垂れる意気込みで目下選抜生の人選中で、その父兄を中心として、種々時ならぬ波紋を起している。」

            2、現教育界の時弊と社会思想の混乱に鑑みたに発す
            「一方本社では屡報(るほう)の如く今回の育英計画の動機が現教育界の時弊と、一つには社会思想の混乱に些か鑑(かんが)みたに発しているので、特に府下の数ある私立中学校から教育施設の上に特色を有する学校を選択し、本社の意義ある特選生を委託して本社の教育方針を徹底せしむべく目下厳正なる調査に基いて、選択中であるが調査も略(ほぼ)完了したので近日其の校名を発表する運びになっている。」となっています。

            この記事によれば、この育英事業に対し、一般府民がこの育英事業を絶賛しており、府下百数十の小学校の校長が意気込んで選抜生を選んでいること、また、この育英事業の目的が、マンネリに陥りがちな教育界を刺激するのと、混乱しがちな社会思想の是正にあると書かれてあり、社会の木鐸を以って任ずる京都日日新聞の面目躍如というところです。

            次に、同じ日の新聞記事に三人の談話が掲載されていますので当時の教育界・実業界・政界の識者を代表する意見として貴重ですから参考のため掲げておきます。

            3、旱天慈雨 第一高等小学校長 土阪元三氏 談
            「洵(まこと)に結構な御計画で私たち教育者としては今回の貴社の先覚的にして有意義且つ社会的事業の御発表に対し双手を挙げて賛成申上げたいと思うものであります。殊に私達高等小学校にとっては従来尋常を出たもので諸般の事情のために中等教育をうけ得ざるものを収容しつつあるので、中にはあたら英才を有しながら如何ともなし難い四面の事情のために高等小学の課程に満足せなければならぬ者のあることは洵に教育上から言っても又社会問題としても十分考慮すべき重大な問題だろうと思惟されます。

            かかる時に当って貴社の今回の発表は洵に彼等一部の者にとっては旱天の慈雨とも云うべく殊に其の御発表において其所に何等の束縛もなく自由を尊ばるるは洵に肯綮(こうけい)に中(あた)るところで官尊民卑の思想の未だ人々の脳裏から去りがたい今日正に其の私立中学を選ばれたことも亦意義あることと謂わねばなりません。」

            第一高等小学校長 土阪元三先生が、この育英事業を絶賛され、

            (1)恵まれない少年救済の為に、教育上、社会的に意義の或る事業である事。(2)何等の束縛もなく自由を尊ぶ点。
            (3)官尊民卑の思想に対抗すべく私立中学校を選んだこと。

            などの点を高く評価しておられます。

            当時は、小学校(6年間)を卒業した少年の上級学校への進学は複線になっていて、中学校五年、師範学校5年、高等小学校2年などがありました。しかし、この中の高等小学校は学歴としては、誠に中途半端な存在で就職も思うようにありませんでした。

            そこで、高等小学校から京日クラスに入学したケースがあるかどうか京日クラスの生徒の一人、木田道太郎先生(京都産業大学名誉教授)にお伺いしました処、「私の知る限り、この京日クラスに高等小学校から一年生の者2名、二年生の者4名の入学生がいた。」とご教示頂きました。

            4、責任重し 京都商工会議所 議員 廣岡伊兵衛氏 談
            「誠に有意義な計画で貴社の責任の重大さが偲ばれます。近時育英事業も種々なる方面で計画されると共に学校教育もかなり風の変わった方針で行われ大阪の羽室氏や東京の沢柳氏の特殊学校と言ったようなものが世間的に色々な意味で問題となっているが是等の点から考えても教育事業は今後ともにずいぶん開拓すべき余地があると思う。貴社の如き社会的には常に先覚者的地位を持っているものがこの未開拓の教育界に新機軸を出されたことは誠に有意義なことで感謝に堪えない。」

            5、私立を選んだ其の達識 並川府会議員 談
            「公立学校尊重の時代は去った。京都市内には内容充実せる立派な私立中学があり是等が中等教育に尽宰(じんさい)したことも多大である。中学校の入学難が叫ばれている今日緩和策として私立学校を奨励することは急務である。御社が特にこの点に眼を注がれたのは確かに達識であった。公立学校が尊重されるのも畢竟(ひっきょう)内容の問題で学校そのものではない。御社が優秀なる生徒を集めて教育されるからには公立以上の成績を挙げられるのも困難なことではあるまい。幾多の犠牲を払ってこの大事業に当られる御社の計画に対しては衷心より喜びたいと思っている。」

            三、涙ぐましい挿話「少年たちに夢を与えた育英事業」
            1、少年思いの中川七条職業紹介所長、優秀なる少年二人を発掘
            更に続いて2月15日には、「本社育英事業に絡まり涙ぐましい挿話もある」の見出しの下、

            (一)「中川七条職業紹介所長が選んだ 九百八十人の中の二少年 きのう自ら来社して願書を提出」という記事がありました。即ち、

            「本社の育英計画が発表せられると共に、児童の父兄直接に或は又小学校長の推薦で入学志望の申込をする者日々多数に上ること既報の如くであるが、今回の如く特選給費生を一般的に広く社会の各方面から自由に志望者を募るということは、洵(まこと)に教育界空前の壮挙であって、その応募の裏面に流れる人生の断面には、涙なしに聞くことの出来ないエピソードが数多く現れているのも無理ないことであろう・・・

            市立七条職業紹介所長中川さんは京都の玄関口に網をはって、社会生活の強い波に圧倒された、弱い失業者の群れの相談相手として寝食を忘れて働いている人で、稀に見る純情の持主であると同時に精力絶倫の若い働き手として評判が高いが、今回本社の発表した特選給費生選抜の報を手にした中川さんは、日頃接触している求職者の内でこの好機会を握ることの出来る者が若しやありはせぬかと早速調査にかかったのであった。

            ところが昨年六月から十二月までの六ヶ月間に、七条職業紹介所の手をくぐって世話になった人々の内で、十八才以下の年少者は実に九百八十七人という多数で、その内小学校卒業者は五百十八人、高等小学校卒業三百三名であった。之等の可憐な知的に恵まれない少年は皆、現在市内の官公署会社の給仕又は牛乳配達等の職に就いているという事が判った。

            如上の統計を得た中川さんはこの一千名の少年求職者のカードについて約一週間に亘り厳密な審査をとげ、漸く二十名の優秀なる少年を選び出してその各人の住所並に勤務先へ自ら出掛けていって、本人の志望、本人の境遇並に就学時代の成績等を調べ上げた結果、本社の育英計画の目的に最も適当なる少年は僅か二人に過ぎなかったが、心密かに期する所はあっても、最初から幾多の不安のあった中川さんは、自ら誇りとして推薦し得る優秀な少年を漸く求め得た喜びに、直ちにその勤め先の主人の諒解を求めるとともに、本人の原籍地に照会状を発し、学業成績、並びに学校長の推薦状を求めて昨日来社、二人の願書を差し出した。」

            2、兄さんの変わりに自分を給仕にしてくれ
            (二)「兄の勉学の時間を 妹が代わって働く 市内某会社の給仕で六ヶ年間級長をブッ通した 石川生まれの西公一君」の見出しの記事には、

            「二人の内の一人は西公一(仮名)といって当年十五才、本籍地は石川県能美郡山○村で、家は相当の百姓で宮竹尋常小学校に六年間は姉の登美子妹の照子と共に何不自由なく暮し、天凛の才能は小学一年生より首席で六年間級長を続けてその人物才能共に郷里の小学校で第一位として数えられていたが、人事の災禍はこの平和なる家庭からその慈母を奪い、遂には父弥三の事業の失敗から家資分散の悲運に陥り、当時石川県小松商業学校一年生に在学して功名ある前途に小さい心を時めかしていた秀才少年も、遂に一家の悲運にひきずられ親一人子三人の一家は、昨年十二月末郷里を出で京都に流浪の宿りを求めてきたのである。

            異郷の空で貯えも少ない彼等一家が揃って七条職業紹介所を訪れて、中川さんの手で父は洛北の一織物工場の夜警とし、姉はデパートメントの売子となり公一少年は市内の或会社の給仕として働くこととなったのは、その後間もない今年の松の内である。

            中川さんの親切から本社の給費生を志願した公一少年は会社の用事を終わって帰宅すると夜は二時頃までも予習に怠りなく、自分で分からない点は一週間二日中川さんを訪れて復習をして貰ってハタの目もいじらしい勉強振りであるが、何といっても十五歳の少年が寝食を忘れんばかりの勉強なので、一家の人々も此頃では公一少年の身体を憂える位だが、ここに洵(まこと)に哀れにも美しいことには、公一少年の妹さんの明子さんは十四歳の細腕で、一家総出の出稼ぎの家庭内を引受けて家事をやりくりしているのだが、兄さんの勉強に幼心にも感○されて自ら仕事に出て兄さんに勉強の時間を与えることを思いつき、昨日の朝兄さんと二人で紹介所に中川さんを訪れて、試験の済むまで兄さんの変わりに自分を給仕にしてくれと懇願したということである。」

            この二つの挿話の記事は、「一、恵まれない少年よ来たれ、の 3、当時の少年苦学生の現実」で述べましたM君の実話と共に、優秀な能力に恵まれながら、家庭の事情のため上級学校へ進学できなかった当時の少年たちが、いかなる境遇におかれていたかが良く分かると思います。

            また、そういう時代においてのこの育英事業が、大きな意義を持ち、教育界を始めとする各界に、大きな衝撃を与えたことと想像がつきます。

            子供思いの純情な中川七条職業紹介所長をして、かかる煩わしい作業に駆り立てたのは、この育英事業が当時の人々に、いかに大きな波紋を投げかけたかをよく物語っています。

            また、この記事に出ている公一君は既卒者の志願者を代表するケースだと思います。このように京都日日新聞の育英事業は、恵まれない少年たちに夢を与えた素晴らしい企画であったことが分ります。

            四、私立両洋中学を選定 中根校長も敢然として快諾

             
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            1、独自の教育法を行い重厚勇断の校風を発揮

            同じく2月20日の記事には、

            「我社の給費生を委託すべき 学校として両洋中学を選定 諸般に亘って精密周到なる調査 独自の教育法を行い重厚勇断の校風を発揮 中根校長も敢然として快諾」の見出しの下、次の記事が続きます。

            「本社が六十名の給費生を委託し秀才教育を託すべき中等学校の選定に就いては爾来各方面の意見を徴し且つ諸般にわたって精密周到なる調査を遂げた結果、わが社が中等教育の理想とする「訓練第一主義」「気概ある有為の中堅国民」を作るに最も適当する中学校として私立両洋中学校を選定することとした。

            市内の各立中学校は各(おのおの)その特長あり何れも独特の教育法を施しつつあって、之が選定には頗(すこぶ)る苦心を要したが或は一宗一派の宗教的色彩の濃厚なるものあり、或は学芸に秀ずるもその校風において首肯し難きものもあって、風格を備うる帝国国民の中堅を作ることを中等教育の理想とする立場から、この理想に最も近き訓練主義の教育を施しつつある学校としては先ず第一に両洋中学校に指を屈せねばならぬ。即ち両洋中学は独自の教育法を行いつつあるが殊に規律節制を重んじ市内の中等学校中巍然として重厚勇断の校風を発揮しつつあるの点はわが社が六十名の秀才を托するに足るとなす最も重要なる要件と見たがためである。」

            2、中根校長再三固辞するも教職員会議を開き快諾
            「わが社は学校の内選定を終わると同時に両洋中学を訪い六十名の給費生の委託を承諾されたき旨を申込んだのであるが、中根校長は同校が幾多市内の歴史あり基礎ある中学校中より特に選ばれたる光栄を衷心より感謝するも、六十名というが如き多数の学生を引受け本社並(び)に社会の期待と負託に副うことはその責任極めて重大であって胸中一箇の自信と抱負はもっているけれども、尚且つ一種の戦慄を感ぜざるを得ないとて再三固辞して受けられなかったのであるが、我社が理想とする「訓練主義」に基いて六十名を委託すべき学校としては同校を措いて他になき旨を力説した結果更に同校の教職員会議を開き協議を重ねた後漸くにしてわが社の給費生委託を快諾さるるに至ったのである。」

            中根正親先生の顔写真と両洋中学校舎の写真入りの第二面トップ記事(縦40センチ×横17センチ)で報ぜられた委託中学校選定の記事は、まだまだ続いていますが、今までの記事の中に京都日日新聞の理想とする、その選択の基準が示されているので確認しておきたいと思います。それは、

            (1)訓練第一主義。
            (2)気概ある有為の中堅国民を作る。

            の二つであります。そして、その基準に対し「両洋中学は独自の教育法を行いつつあるが殊に規律節制を重んじ市内の中等学校中巍然として重厚勇断の校風を発揮しつつある」点が、選定の理由であると言うのであります。

            この時、中根正親先生は数えで37歳、大正4年開学以来11年目のことでありました。この官学志向の壁を打ち破る一大快挙は、中根正親先生の燃えるが如き熱心な教育実践にあったことは言うまでもありません。

            この快挙はまた、日本の教育史殊に私学教育史の一頁を飾る金字塔でなくて何でありましょう。

            五、明治大帝の五ヶ條のご誓文に則る両洋主義 独特無比なる教授法 誇るに足るバンド
            1、両洋中学の紹介 

            ―両洋主義を以て教育主義となす―
            同じく、2月20日の記事に、「五ヶ條のご誓文に則る両洋主義 独特無比なる教授法 誇るに足るバンド」という見出しで次の記事が載っている。

            「わが社が選定したる両洋中学校は、当初教育界の異才中根正親氏が自家の教育主義を実行するために創めた私塾的学校であったが、其の教育主義を敬慕し来る学生によって大正四年創設以来、逐日隆盛を来(た)し、大正十二年現在の三条千本西に位する三千八百坪の新校舎位置に移転し、文部省の認定指定を得て現今四百五十余名の学生を教養しつつあるが、校名の示すが如く、実に明治大帝の五箇條の御誓文の主旨に則る両洋主義を以て教育主義となし、殊に大隈公最後の遺訓たる「日本民族は東西文明の融和者たれ」との主旨を校是として、剛建勇断の国民教育に精進しつつある。」

            2、教職員の紹介
            「現在においては十学級五百数十余名を収容の設備を有し職員には文学士徳重浅吉氏、工学士渋谷藹氏、農学士岩崎直砥氏、理学士土井一郎氏、バチェラー・オブ・アーツ和田利政氏、ミス・サウター氏、陸軍大尉花岡廣三氏、派遣軍事教官伊藤大尉、森永毅一氏、後藤政雄氏、藤原久治氏、等々々の○数学教育の権威と称せらるる前北野中学数学主任俵兵次郎氏、英語教育の権威前二中教頭下甲子郎氏、殊に嘗て陸軍士官学校において三宮殿下と御起居をともにして御教導申上げた、陸軍中佐大田朝吉氏等があって知育に徳育に徹底的の教育を施しつつ」

            3、我が教育界において独得無比の教授法
            「此の上に立って中根校長は、その創見に係る解析英訳学及び数理直達法の如き、我が教育界において独特無比の定評ある教授法を行い、その規律あり節制ある軍事的教育と相俟って巍然たる校風をなしている。殊に解析英訳学は大正七年文学博士新村出教授の推奨によって、京都文科大学言語学会においてその研究を発表し、優に博士論文に値するとまで喧伝せられたものであり、又大正十三年二月二日同校一年生を率いて大阪毎日新聞社英文毎日編輯局を訪うてその新学習法を提示して英文毎日社員を驚かしたことは、その翌日の英文毎日紙上に「此の学習法を以てすれば一年生が全く初めて出会する難解の文字(ASSASSINATION( SECONDARY )( DOWNTRODDEN )等等々の綴字すら、猶且つ之を容易に綴って退けることが出来る」と称揚された程で、言語学会の発表後、同業萬朝報および英字雑誌ウィークリー等に依って賞讃を博したもので、同校生徒の英語力は他に比○を見ざる発達を遂げている。

            又数理直達法に就いては大正九年京都府教育会の主催で初めて研究発表し、大正十三年全国中等教員大会においても之が研究を発表したが、一般に難解とされる代数学を酒屋の小僧にも解し得しむるその中根氏独得の直達法は、酒屋代数の名称を会員から呈せられ、各学校は直に之を採用すべしと主張する者すら出たほどであった。」
             
            4、全国最大唯一のスクールバンド、校風士気の鼓吹に資す
            「斯くして学習方面に独得異彩を放てる教授法を示しつつある一面、更に昨年より音楽を以て校風を統一し、生徒の情操教育を行うとの理想から生徒七十名より成るブラスバンドを組織し、生徒の気風をして蕃疎(ばんそ)に走らず、惰弱に流れしめないことに努めているが、他の多くの中等学校が或いは野球に、ボートに熱中する間に、同校は生徒によって生徒の情操教育を行うの方面を行っている。

            蓋し同校のこのバンドは全国を通じて最大唯一のスクールバンドであって、常に校風士気の鼓吹に資し校礼、儀式に方(あた)つては之を率いて吹奏せしめ一週一日行わるる国旗揚式には全校生が方陣を作って、徐に掲揚さるる国旗に対しバンドが君ヶ代の曲を吹奏する情景は蓋し汎く求めてその比を見ざる感激である。

            此のバンドは専ら之を教導する陸軍一等楽長小畠賢八郎氏に率いられ去る十五日大阪放送局の需(もと)めに応じて放送を行い皇孫御降誕祝賀の砌は市公会堂の祝賀会に招かれて吹奏したほどで、学芸情操併び備った風格ある紳士を作るとの理想より発せる折襟ネクタイの同校の制服と共に我社の秀才六十名を委託するに足るものあるを信ずるのである。

            我社は委託生六十名に対して、自ら省みて正しく、他に向ってはわが社の委託生たる名誉を恥しめざらんがためにこの折襟にわが社のマークを附して委託生の責任と抱負と団結心を一層痛感せしむることとした。」 

              
            六、両洋主義の根拠について
            此の日の記事のお蔭で、多くの収穫がありました。一つは、「両洋主義」の根拠であります。記事の中に、「五箇條の御誓文と大隈公最後の遺訓に則る」と、はっきりと書かれています。私の記憶でも中根正親先生からそのように聞いたことを覚えています。ちなみに、五箇條の御誓文とは

            一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
            一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
            一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
            一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
            一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振興スヘシ
            我国未曽有ノ変革ヲ為ントシ、朕躬ヲ以テ衆ニ先シ、天地神明ニ誓ヒ、大ニ斯国是ヲ定メ、万民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ。

            と言うもので、この最後の「智識ヲ世界ニ求メ」という箇所が両洋主義に当たるのであります。ついでに触れておきますと、此の「両洋」と言う言葉は、中根正親先生の創見(造語)であります。これは筆者が、中根正親先生自らおっしゃるのを拝聴しました。

            また、「中根正親先生回想録」によれば、大正7年4月以前のある日、中根正親先生が正則予備校の書生兼生徒の中山吾一氏に「中山君僕は此の学校に新しい名をつけて大いに発展させたいと思うが、今後は東洋文明と西洋文明が融和されて、新しい文化を築いて行かねばならぬと思うので両洋学園としたいと思うがどう思うかね」と諮問された。(「中根正親先生回想録」90頁「恩師、中根正親校長と私」)とあります。

            従って、この両洋と言う名前は中根正親先生の創見で、その思想的根拠は五箇條の御誓文と大隈公の遺訓にありという結論になるかと思います。

            七、両洋学園の建学の精神について
            此の記事の中で注目すべきは「両洋中学校は当初教育界の異才中根正親氏が自家の教育主義を実行するために創めた私塾的学校であった」と両洋学園の建学の動機を書き記していることであります。
            先に触れた中山吾一氏の回想文「恩師、中根正親校長と私」の中でも「・・・此の学校(大正五年〜大正八年頃の正則予備校・両洋学院)では英・数・漢・国の四科目に力を入れて教育され、其の教育法は、後に要体教育となった中根先生の独得の教育法の研究中で、或る意味に於て私達生徒は、其の試験台に立たされたようなものであった・・・」と書かれてあり、両洋学園創立の根本動機は、中根正親先生が、創見された独得の教授法を実践しつつ世に問わんが為であり、更に研究を重ねて完成させんが為であったと言えるのではないでしょうか。

            その根拠として、中根正親先生は、昭和43年11月2日、明治百年を記念して京都新聞に発表した「教育革新宣言」の中で「微力の両洋学園が、五十年の長期にわたり建学の使命として、新教育樹立のため、学園の運命を賭して、研究実績に全力を傾注してきたのもその淵源は、実にここにある。」と述べておられることを挙げれば十分かと思います。

            両洋学園の建学の精神は、両洋主義と共に「新教授法」(要体教育)の研究・開発・実践にもあるのだということを強調しておきたいと思います。両者は車の両輪の如しであると言えると思います。

            八、独得の教授法について
            前章で触れた「独得の教授法」について、この記事で多くのことが分ります。即ち、解析英訳学であり、英単語綴り法であり、酒屋代数と名づけられた数理直達法であります。解析英訳学は、のちに「ブランクイングリッシュ」と呼ばれた英語を構文を中心にして読解する方法で、個々の単語の意味を度外視して解釈を進めるもので、記事の通り「大正七年文学博士新村出教授の推奨によって京都文科大学言語学会においてその研究を発表し」たものであります。

            中根正親先生と新村出教授とのご関係は昭和46年2月筑摩書房より出版された「新村出全集」第五巻の月報「思い出の記」に詳しく載っています。右の京都文科大学言語学会においての研究発表が原因となり、中根正親先生は京都大学を退学される(学長から諭旨転学を申し渡された為)訳ですが、この事件を契機に中根正親先生は更に奮起され両洋学園の設立に発展していったのですから、新村出教授は両洋学園生みの親ともいう存在であります。

            話がそれますが「思い出の記」には載っていないオフレコのお話として中根正親先生は新村出教授のお話をされる時には、必ずといってもよいくらい新村出教授の奥様が「日本婦人の模範」であったことを強調されておられました。

            さて、英単語綴り法はこれという呼び名がないようですが、発音を聞いただけで、綴り法の法則に則って英単語を書くことができると言うもので、そのための呪文とも言うべき「綴字歌」が作られていて、その歌を唱えながら書くことができると言う便利なものであります。

            数理直達法という言葉は、此の記事で始めて知りましたが、酒屋代数という言葉は聴いています。要体教育については、よくご存知の方々にお聞きしながら別途研究していく計画を立てています。

            九、両洋ブラスバンドについて
            中根正親先生が教育に音楽を取り入れた歴史は古く「中根正親先生回想録」の102頁に「学生劇」のことが出ています。大正10年頃の事だと思いますが、この学生劇を始めるときにビーイズアムアーの助動詞の歌を歌ったとあります。此の歌の伴奏はヴァイオリンで両洋学院の生徒たちが、ヴァイオリンを弾きながらビーイズの歌を歌ったと聞いています。

            実際この「学生劇」の文中に出てくる三浦さんとは、私が中学生の頃から謦咳に接することの出来た両洋学院中学、大正9年卒の三浦慶定(神道家名芳聖)先生のことで、私はこの三浦芳聖(大正7年4月〜大正12年3月の間京都に学ぶ)から直接お聞きしましたが、中根正親先生からヴァイオリンを習いヴァイオリンを弾きながらビーイズを歌ったということです。

            また中根正親先生はヴァイオリンの練習を独学でなさったとお聞きしました。また、ブラスバンドの指揮をとられる事もご自分で創意工夫して編み出したと聞いています。その方法は独得で、太陽を背に、壁に向って指揮棒を振る練習をされ、壁に映る影を見ながら指揮法を工夫されたと聞いています。

            両洋ブラスバンドの歴史はこの新聞記事から、大正14年に正式に始まり、大正15年2月15日にNHKの大阪放送局から放送したこと、及び皇孫御降誕祝賀会に招かれて京都市公会堂で演奏した事などが判明しました。

            このほか、「中根正親先生回想録」の年譜(この年譜は旧制両洋中学第3回卒業生の柴田澄雄先生がご苦心の末、調査研究された成果であります。)には、大正15年7月27日、NHKの大阪放送局から、昭和2年3月24日、AK・BKより吹奏楽二元放送という記事が載っています。これもまた、当時の新聞記事などで確認してみたいと思っています。

            十、ペスタロッチ百年祭に際し我社の理想に基いて教育
            1、ペスタロッチ百年祭に際し 我社の企て意義深し
            同じ2月20日の記事に「ペスタロッチ百年祭に際し 我社の企て意義深し 委託生をもって一学級を編成し 我社の理想に基いて教育」の見出しで次の記事が続いています。

            「我社の六十名の秀才を委託すべき学校に特に私立中学校を選んだ所以は官学万能の事大思想を矯正して、中等教育界の難問題たる入学難の緩和に資すると共に、曩(さき)に公表せるが如くわが社の委託生をもって一学級を組織し、之にわが社の理想とする教育方針に基く徹底的の教育を行わんとするにあるが、時恰も終世を自家の教育方針を実行し、貧児の教育のために終始せる大教育家ペスタロッチの一百年祭を迎えて、わが社が埋もれたる秀才の教育の道を拓き与えんとするの計画を行い得るは、此の上なき欣快とする処である。」

            2、日本のペスタロッチ「中根正親先生」
            大正15年の京都日日新聞の育英事業とペスタロッチの百年祭が一致したと言うのでありますが、まさに中根正親先生は日本のペスタロッチであります。「中根正親先生回想録」を繙けば中根正親先生が生徒を愛育されたお話は枚挙に暇がないほどです。

            先に「一、恵まれない少年よ来たれ 3、当時の少年苦学生の現実」でM君のお話を紹介しましたが、ある日、M君が昼食を食べられず校庭で時間つぶしをしていますと中根先生がやって来られ「M君、どうして昼食を食べないんだ。」と質問されたと言うのであります。

            昼食が食べられないほどの貧しさの中で苦学していることを正直に話すことが出来なかったM君は、赤面しながら「私は二食主義でありますから」と答えたそうです。すると、中根正親先生は「そうじゃないだろう、君が苦学していることは分っている。今日から僕の食べる食パンを半分あげるから一緒に食べよう。」とおっしゃって、それから約一年の間、中根正親先生の食パンを半分頂いたと言うのであります。

            更に、翌年には中根正親先生はM君に学習塾のお世話をして下さり、お蔭でM君は苦学の境涯を脱し、両洋学院の勉強のみならず、碩学のお宅を訪ねて個人教授を受けるなど、幅広く勉学に励むことが出来たと述べておられます。(三浦芳聖著「神風串呂」昭和44年2月号より要約)

            また、同じく両洋学院時代の卒業生中山吾一少年も昼食が食べられず、焼き芋屋のおじさんに頼み込んで、焼き芋を半分売ってもらっておなかの足しにしたと語っておられましたが、「中根正親先生回想録」の中で、M君と同じように新聞配達をした苦労話を述べた後「それを見られた中根校長は、或る日私を御室に呼び出して下さって、私の身の上話を聞いて下さり、小使いとして学校の寄宿舎に寝起きし掃除したり先生のお手伝いをするように取り計って下さった。」(90頁)と書いておられます。

            このように、中根正親先生は、向学心に燃える恵まれない少年たちにご慈愛に満ちた教育をされました。中根正親先生の暖かい愛育のお蔭で上級学校への進路が開かれたり、人生そのものが大きく展開した教え子の例は数え切れないほどあると思います。

            また、中根正親先生は、学習苦に悩む青少年のために、学問の王道を求めて、果てしない教科の荒野を彷徨し、前人未到の教授法、学習法を生涯にわたって研究された点で、「教授法のペスタロッチ」ともいえると思います。

            ペスタロッチの百年祭に京都日日新聞の育英事業が企画され、中根正親先生の経営される両洋中学が選定されたと言うことは誠に奇しき因縁であると思わずにはおられません。

            さて、最後に私はこの京都日日新聞の育英事業は、始めから「中根正親先生」のために企画された事業だったのではないかという「仮説」を提唱いたします。既に、関係者がご他界されていて、確認しようのない事でありますが、京都日日新聞の首脳陣は、「両洋中学の中根正親先生に優秀な生徒を託してみよう」このように発想されて育英事業が企画されたような気がしてなりません。

            この仮説は、これから順次、京都日日新聞の関連記事を調べていく内に分ってきそうな気がいたします。

            「中根正親研究」の展望
            京都日日新聞の育英事業「両洋中学京日クラス」の研究により、「中根正親研究」は、一つの展望を得たと思います。京都日日新聞のこの育英事業は、中根正親先生からお聞きしていた以上に「記念すべき大事件だった」ことが判明すると共に、両洋学園史および「中根正親研究」にとって貴重な資料の宝庫でありました。

            今回紹介させて頂いた資料は、わずか4日分の新聞記事に過ぎませんが、「京日クラス」に関する記事はすでに入手したものだけでもこの他に10点以上に上ります。

            両洋中学「京日クラス」は大正15年4月から昭和6年3月まで五年間存続しましたので、更に多くの記事が存在するはずです。今後時間の許す限り、鋭意研究を進めて行きたいと思います。ご指導ご鞭撻の程宜しくお願いします。 

            『中根正親先生回想録』特価販売サービスについて
            | 中根正親 | 14:31 | comments(0) | - |
            中根正親校長を偲ぶ(四)
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              中根式速記法創案者・学校法人両洋学園創立者、偉大なる中根正親先生を偲ぶ(四)

              「新教授法に命をかけて」の巻

              私が、両洋学園内の職員寮に住んでいた昭和52年の寒中のある夜の事です。ふと部屋の窓から外を見ますと、学園南側の幼稚園舎に明かりが煌々とついていましたので、何事ならんと驚いて行ってみました。すると、当時86才の中根正親先生が、広い幼稚園舎の片隅で、小さな電気ストーブを相手に、なにやら真剣に研究されているご様子でした。  

              実は、そのころ中根正親先生は、「要体教育」の最後の仕上げに熱中しておられ、とうとう教育対象を幼稚園児にまで引き下げて毎日、研究・実践をしておられ、その記録を映像で残そうと、8ミリで撮影しておられる最中でした。

               

              先生は、そのシナリオ作りから8ミリの撮影、編集にいたるまで、全てご自分で企画され、昼間は助手のY先生一人を助手にして、その作業を進めておられました。

               

              その日は熱中のあまり、冷え切った深夜の幼稚園舎に留まって、翌日の要体教育実践のための構想を練ったり、記録の方法等について必死で研究されているご様子でした。

               

              私は、窓越しに先生の真剣そのもののご様子を拝見し、余りの神々しさに全身が打ち震えるような感動を覚え、部屋に戻って先生のお好きな「ホットミルク」を沸かして陣中見舞いに参上しました。

               

              すると先生は嬉しそうに笑って一杯だけ召し上がって下さいましたが、たった一二分お話し下さっただけで、厳しい表情に戻られ、私に部屋に帰って休むように言われ、また研究に取り掛かられました。先生は、この時「生みの苦しみ」に全精神力を傾倒され全神経を集中されていたのでした。

               

              翌朝、先生は、時間通り職員朝礼に臨まれましたが、そのお疲れになったご様子から、先生はそのまま夜通し研究をされ、一睡もされず朝を迎えられたようでありました。

               

              それまで、私は用事があって先生のお部屋に参上したことが度々ありましたが、先生はいつでも机上に学習参考書を置かれて数学や化学・物理などの教授法を研究しておられました。しかし、この時のように鬼気迫る面持ちでひとつの事に熱中され、しかも徹夜までされるのを拝見したのは初めての事でありました。

               

              私の知っている中根正親先生は学園内の校長寮と呼ばれる一軒家に一人で住んでおられ、考えることは、寝てもさめても両洋学園のこと・生徒指導のこと・要体教育と呼ばれた新教授法の研究・実践のことでした。

               

              「問題、計線」「無し書き直せ」「ゼロワン」などの要体教育のキーワードと共に中根正親先生のお姿が懐かしく思われるこの頃です。

               

              中根正親先生、これからも天界から私どもをお導きくださるようお願い致します

               

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              | 中根正親 | 06:38 | comments(0) | - |
              中根正親校長を偲ぶ(三)
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                中根式速記法創案者・学校法人両洋学園創立者、偉大なる中根正親先生を偲ぶ(三) 

                「日の丸の旗よ永遠なれ!朝礼こそ学園の命!」の巻(まき)

                両洋学園は、日本で初めて国旗掲揚式を挙行した学園であることを誇りにして参りました。大正12年以来の伝統です(現在は経営者が変り実施していません)。  

                中根正親先生は「両洋学園は、日本最初の国旗掲揚校といわれ、大正12年以来毎日、掲揚・降下式を行っている。国を愛し、社会を愛し、世界を愛することに通ずる。若き青少年は人を愛する前に人から愛せらるるための意味深い躾教育を受け、進んでは、おおらかな人類愛を学び取らねばならぬ。国旗は私たちの愛のシンボルであり民族の誇りのしるしである。」(『中根正親先生回想録」』)とおっしゃっておられます。

                 

                両洋高校は、京都の地にあってただ一人、終始一貫日の丸の旗を掲揚し続けて来たのであります。素晴らしいことだと思います。この朝礼ですが、中根正親先生が若かりし頃は知りませんが、私がお世話になっていた昭和51年から56年頃(90才前後)は、「校長の長話(ながばなし)」と言うあだ名が付く程の長時間朝礼が続く事が多かったのです。

                 

                今、私は、この朝礼に意味を与えようと思います。先ず、形から見ることにします。朝礼時、生徒たちは、身長順男女別に小さい者が先頭で整列します。号令は、「アテンション!」(attention 気をつけ)、」「バウ」(a bow おじぎ)と、英語で掛けます。休めは「アティーズ」(at ease)です。

                 

                この「アティーズ」の姿勢が素晴らしいのです。先ず、両足を肩幅より少し広めに開き、手を後ろで組んであごを引きます。そして、おなかを前に突き出すようにして、「立腰の姿勢」をとります。立ったままの立腰です。坐位による立腰に比べ長時間この姿勢を維持できます。中根先生はこの立位の立腰を「立禅」と名付けられました。この立禅は朝礼の間中、続けられるのです。

                 

                次に、精神面を見てみます。入学式の日、両洋の生徒はこの朝礼の洗礼を受けます。長々と続く老校長式辞です。意味は途切れ途切れで、「えへん」という咳とともに別の話題になります。何がなんだか分からない校長式辞が延々と続きます。生徒に許されているのは、ただ忍耐あるのみです。ここで切れてしまえば即退学を覚悟しなければなりません。

                 

                入学式で終わるかと思いきや、この長話は朝礼という檜舞台を得て、来る日も来る日も行われ、卒業式の日まで続きます。不思議なことですが、こうした状況の中で奇跡的というか生徒たちは音を立てて成長していきます。先ず集中力が身につきます。忍耐力が身につきます。体が健康になり頭脳が明晰になります。

                 

                入学時15分と持たなかった生徒も3年後の卒業時には2時間以上平気で「立禅」が可能となるのです。忍耐力の中には寛容の精神も含まれます。立禅により体をコントロールすることにより、精神をも鍛えることができるのです。当然、大脳も発達します。正に心の教育です。しかも、世に先立つこと半世紀以上も前に完成されていたのであります。

                 

                両洋学園のこの朝礼の取り組みの成果は就職後の社会的な評価の中で見ることができます。たとえば工場に、たとえば百貨店に、たとえばガソリンスタンドに就職した新入社員の中で、両洋高校の卒業生は、肉体的にも精神的にも断突で光っているのですから、雇い主がびっくりするのは当然です。一例を挙げますと、現在京都市に本社を有し、宇治市に二つの工場を有する大手製薬会社の、その草創期の原動力になったのは両洋高校の卒業生でした。

                 

                私も何回か、当時京都市伏見区にあった動物の内臓から薬の原料を抽出する零細工場を訪れて、その作業現場を見学しましたが、正に3K(きつい・きたない・くさい)の厳しい労働条件の中で、一言も不平を言わず、黙々と働いていたのは両洋高校の卒業生でした。その姿は、私には到底まねの出来ない有り難くも尊い姿でありました。現在、彼らは宇治市にある、現在躍進中の大蔵製薬株式会社の中堅幹部として大活躍しています。

                 

                中根先生は常々「生徒主義」といっておられましたが、卒業後の生徒に何が必要かを考え抜いた上での「朝礼」でした。両洋学園在職中の未熟な私には到底この遠大な慮りを窺い知る事は出来ませんので、「朝礼」に対し正直のところ「やや批判的な目で眺めていました。しかし、それから34年を経過した現在、中根先生の天才的な「教育法」の深い意味がやっと分かりかけてきたのです。

                 

                中根先生は「光がレンズの焦点に集まれば、その瞬間、光は強力な熱エネルギーと化し、すべての対象物を焼ききってしまう。教育についても同様なことが言えるのではないか。/だが、現代の教育制度はその焦点を知らない。果たしてそこに燃焼するような激しい教育への情熱が見つけ出せるというのか。・・・後略」(『中根正親先生回想録』323頁「教育について」より抜粋)と述べておられます。

                 

                両洋学園の「朝礼」は、正にこの「焦点」であったと断言いたします。成長期の生徒に必要なすべての要素が含まれていたと気が付きました。雨の日を除いて、天気の日は毎日、毎朝この朝礼が行われていました。生徒数は多い時でも250人程でした。中根先生は、在学中のほとんどの生徒の名前と人物について把握しておられました。ですから、朝礼は中根校長と生徒たちの心の触れ合いの時であり、共に学びあう修養の時であり、人格(魂しい)が響き合う勝負の時でもありました。

                 

                あるときは春風の中、あるときは炎天下、あるときは秋晴れの下、あるときは小雪の降りしきる中、あるときは寒風をついて両洋学園の「朝礼」は行われていました。私はそのときの厳粛な有様を教諭という立場で、この目で拝見することの出来た数少ない証人の一人です。(いずれ、写真と共に公開されるでありましょう。)

                 

                このことを、今書かなければ中根先生の偉業が後世に伝えられないことを恐れて、もとより浅学非才の私が、恥を忍んで書かせていただいています。皆様、どうかお許しください。

                 

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                | 中根正親 | 06:33 | comments(0) | - |
                中根正親校長を偲ぶ(二)
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                  中根式速記法創案者・学校法人両洋学園創立者、偉大なる中根正親先生を偲ぶ(二) 

                  「タイムカード教育」の巻(まき)

                  私が、両洋学園に赴任した昭和51年4月の頃の思い出です。両洋学園両洋高校では玄関にタイムカード打刻器が二台置かれてありました。高校生がタイムカードを打つ!誰でも突拍子もない話とびっくりされると思います。しかしタイムカードを打つのは、会社に入れば当たり前、一秒時間でも遅刻は遅刻です。

                  現実社会の厳しさをふまえて生徒の為に、こうした奇抜な教育方法を取り入れられる所に、中根正親先生の偉大なるご慧眼があるのです。中根正親先生は、これを「生徒主義の教育」といっておられましたが、普通人の頭では到底理解できないのです。私も、中根正親先生が亡くなられて24年経過した今ごろになってやっとその偉大なご慧眼・ご着眼点が分かりだしたのです。

                  タイムカードは生徒本人が管理し、毎朝HRの時間に担任に提出、担任はその日の内に、きちんと打たれているか、遅刻ではないかを、確認してゴム印で を押し、帰宅する時までに、返します。早退する生徒にはとゴム印を押します。一ヶ月が経過すると担任に提出させ、学校保管で生徒には返しません。

                  「遅かりし由良之助」ですが、この「タイムカード教育」の意味がやっと今ごろになって分かりだしました。課題と評価です。毎朝、遅れないように学校に入るのが課題。タイムカードに何時に登校したか、記録されるのですから、それは目に見える評価です。毎日、課題と評価が繰り返されます。社会に出て即役立つ素晴らしい訓練です。教師は、カードを管理するだけです。それでいて、ものすごい教育が行われていたのです。生徒はカードにと記録されることを避けようと必死で努力します。朝一番、登校の瞬間に訓練が始まっているのです。逆境に打ち勝つ訓練が行われていたのです。

                  中根正親校長が偉大であるのは、それだけではありません。校内の校長寮に独居自炊でお住まいの中根正親先生は、毎朝、早朝よりタイムレコーダーの置いてあるカウンターの中に立って自ら生徒を迎えられるのです。「両洋学園」ですから、全員「グッドモーニング」と英語で言わなければ玄関を通れません。

                  当時私は、校内にあった職員寮に住んでいましたので、中根正親校長の助手として、このタイムレコーダーの係りを志願しました。中根正親先生の真摯な実践の前に、ただただ頭が下がり、一人でにそうなりました。それ以外の理由は説明できません。

                  数日後、私は「もう私、一人で出来ますから」と言って、この早朝の仕事を自分の修養のために頂き、この「タイムカード教育」終了の日まで、一日の休みも無くカウンターの中に立って生徒を迎えました。若さとは素晴らしいものだと思います。あの時から34年を経過した今日、当時を振り返って、毎朝、志願してカウンターの中に立つ仕事をさせて頂いた事を思い出し、その有難さに感謝しています。

                  中根正親先生は、こうして努力する私を高く評価し、いつも優しくねぎらって下さいました。中根正親先生の深い英知と実践力、部下をねぎらうことを忘れない、暖かいご愛念などは誰にでも出来るものではないことを確信しています。

                  偉大な中根正親先生にこうして直接教えを受けることの出来た幸運を今、私は何ものにも代えがたい貴重な体験として記録させて頂き、感謝とともに中根正親先生の偉大さを一人でも多くの方々に知ってもらいたいと思っています。

                  何やら、自慢話のような気がして恥ずかしいのですが、事実ですので、敢えて発表させていただきました。ご理解の程をお願いします。 中根正親先生のみ霊これからも、天界から常に私をお導きください!


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                  | 中根正親 | 05:27 | comments(0) | - |
                  中根正親校長を偲ぶ(一)
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                    中根式速記法創案者・両洋学園創立者、偉大なる中根正親校長を偲ぶ(一)

                    8月16日、この日は有名な「五山の送り火の日」でありますが、中根式速記法の創案者で、両洋学園創立者の中根正親先生のご命日でもあります。

                     

                    今年は、中根正親先生が、1984(昭和59)年にご昇天されて26年になります。私は中根正親先生が両洋学園長をされていた最晩年の7年間、教諭として中根正親先生に大変お世話になったばかりでなく、人生全般にわたって、さまざまなご指導を頂きました。新米教師時代に、私は、明治生まれの気骨ある中根正親校長のお蔭で大変助けられた思い出があります。それは、教員生活2年目の1977(昭和52)年の頃と記憶しています。

                     

                    中根正親校長は、生徒指導上の行き過ぎで責任を問われて困っていた私の為に、長時間に渡る相手の抗議を物ともせず、粘りに粘って見事に相手を説得され、私をかばって下さいました。その間、新米教師の私には一言もしゃべらせず、相手の抗議には総て中根正親校長が、堂々と、しかも延々と続く真剣な説得で対応して下さいました。そうして、ふと気がつくと数時間が経過していました。

                     

                    根負けした相手方は、帰りがけに「校長先生、このような些細なことで、大変貴重なお時間を取らせ、誠に申し訳ありませんでした。先生のおっしゃる通りです。今後ともご指導の程、宜しくお願いします。」と最敬礼をして引き上げて行かれました。私は、その様子を見て、「偉大な校長先生だ!」と中根正親先生に対する尊敬の念が全身を駆け巡るのを覚えました。

                     

                    中根正親校長は、その時、力強いお言葉で「鈴木君、教育は信念だよ!その調子でいいから、しっかり頑張りなさい。」と、お叱りを受ける事を覚悟していた私を、逆に激励されたのでした。その時、中根正親先生のお年は、数えで88歳でした。

                     

                    今、33年前の当時を思い出すと、私は、目頭が熱くなるのを覚えます。因みに、若き日の中根正親先生はライオン校長の異名を持つ熱血校長でした。在天の中根正親先生のみ霊、これからもどうか私をご指導下さい。

                     

                    『中根正親先生回想録』特価販売サービスについて

                    | 中根正親 | 05:09 | comments(0) | - |
                    中根正親先生の業績
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                      中根正親先生は1890(明治23)年10月16日、長崎県島原市の城下町(現在の島原市2261番地)に、元藩士、中根正秀、てふの長男としてお生まれになり、旧制長崎中学を卒業後、単身上洛、翌年、京都三高理科甲類に学ばれ、更に京都帝国大学工科大学土木科に進まれました。

                       

                      中根正親先生は、1914(大正3)年、京大在学中、23歳の若さで画期的なる速記法の新案発明をされ、中根式速記学校を創立、更に1915(大正4)年には京都正則予備学校を開校され、学校長に就任、以来70年の長きに亘って終始一貫学校長としての見事なご生涯を貫徹されました。

                       

                      速記法の発明は、インツクキ法や逆記法など日本語の特徴を生かした、これまでにない便利なもので速記術のスピード革命であったため、中根式速記法として一世を風靡した程で日本の文字文化史上、類例のない偉業でありました。中根式速記法は以来今日までおよそ90年の永きに亘り常に速記界をリードし世の多くの人々に恩恵をもたらし、日本の文字文化の向上に多大な貢献をいたしました。

                       

                      京都正則予備学校は1918(大正7)年、両洋学院と改称され1925(大正14)年に両洋中学となりましたが、戦後、昭和28年、学校法人両洋学園として幼稚園から高等学校に至る総合学園に発展致しました。この間、中根正親先生は、終始一貫学園長として教育現場の第一線に立ち、まことに類例のない誇り高き熱血校長として学園の経営に全身全霊を打ち込んで来られました。

                       

                      中根正親先生は、夙に秀才の誉れ高く、学生時代には日本語の講義を英語で筆記されるなど奇才を発揮され、速記法の発明をはじめとする諸々のアイデア教育、ヴァイオリンや吹奏楽団、更には学生演劇のご指導など多方面に亘って独創的な新境地を開くユニークな教育活動を実践されました。

                       

                      また、中根正親先生は教育法の研究にも力を入れられ、学習苦に悩む青少年の為に「学問の王道」を求めて「要体教育」と呼ばれる学習法を創案、実践され、昭和22年両洋新教授法研究所を設立して研究活動に邁進されました。その研究活動の多くの業績の中から一例を挙げれば、大正7年、京都帝国大学言語学会における英語の解析訳法の発表、大正11年文部省、大正14年文部省及び教育審議会に於いて等々、また近年では昭和57年英国エジンバラに於ける国際応用心理学会での発表など各方面に大きな足跡を残されました。

                       

                      中根正親先生は「東西文化の融合は日本民族の世界史的使命である」との自覚に基き、国際社会に雄飛する東西文化の体得融和者の育成を建学の使命とし、多くの人材を育成されました。例えば、大正14年と15年の2回に亘って2名の留学生を英国に派遣したのをはじめ、朝礼時などの号令に英語を採用したり、他校に先駆けて折り襟ネクタイの制服を取り入れるなど、常に進取の気象に富んだ教育活動をされました。

                       

                      また古くより学園の門戸を広く開放され、戦前、台湾・朝鮮よりの出身者を快く引き受けられ、それぞれの国に約1千名の卒業生を持たれるなど、肉親も及ばないほどの仁愛の精神に基き国家内外の師弟の育成に努力されました。

                       

                      途中、昭和9年の室戸台風禍により校舎倒壊焼失、生徒21名死亡という不幸な出来事や第二次世界大戦による物心両面にわたる痛手など学園には多くの危機がありましたが、忍耐強い中根正親先生は、明治人の気骨を以って一つ一つ確かな足取りで克服されました。

                       

                      中根正親先生は、昭和41年には京都新聞五大賞「第一回教育賞」の栄誉に輝き、また昭和57年10月28日には日本速記百年記念式典に於いて表彰されました。

                      | 中根正親 | 06:12 | comments(0) | - |
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