東西文化研究ノート

東西文化の融和体得者を育成せんことを建学精神とする両洋学園の創立者・中根正親先生の「両洋精神」と、国民教育の友とならんと「社団法人実践人の家」を創始された教育哲学者・森信三先生の「全一学」に魅せられて、「東西文化の融合は大和民族の世界史的使命である!」というテーマに的を絞って東西両洋文化の研究をしている管理人のブログです。
緊急事態!多病・多死社会に突入した日本
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    緊急事態!多病・多死社会に突入した日本
     
    朝夕の冷え込みが厳しくなってきましたが、いかがお過ごしですか。3.11の津波(福一原発)事件以来、我国は多病・多死社会に突入したようです。原因は、今更申し上げるまでもないでしょう。新聞、テレビ、インターネットの情報を注視していれば、何が原因かは明瞭です。
     
    【参考】ほんの一例です!(インターネットでご確認下さい)
    ◆那須の中高一貫校「無念」在校生卒業後廃校へ  (2012年12月8日)
    ◆震災以降に急減少する人口と激増するお悔やみ欄!生産人口が初の8000万人割れ!放射能の影響は数千万人以上か!?   (2013年8月2日)  
    ◆東京の医師が検査と東日本からの避難を強く呼びかける (2014年2月15日)
    ◆「福島から1000km離れた場所でないと危ない」(東芝OB) (2014年9月15日更新)
    ◆東京からの避難を呼び掛けた三田茂医師は作年4月、岡山に移住していた。 (2014年4月21日)
    キノコの放射能汚染地図がヤバイ!福島県だけではなく、甲信越地方等でもセシウム検出が相次ぐ  (2014年8月29日)
    ◆“火葬が追いつかない”多死社会の現実  (NHK放映 2015年1月14日)
    ◆大臣クラスの超大物が次々に亡くなる日 (2015年11月18日)
    ◆北の湖理事長が死去、62歳 元横綱・優勝24度 (2015年11月20日)
    首都圏で電車を止める急病人の激増は、この猛毒の濃霧が原因だ!!    (2015年12月7日)
    山本太郎議員が小児甲状腺癌の多発を国会で追求!政府答弁に激怒!「福島で153人に。明らかに多発ですよね」  (2015年12月13日)

     
    前途多難、未曾有の多病・多死社会(時代)において、現在地で生活するしか他に方法のない私たちの喫緊の課題は一人ひとりが自分の力で免疫力を高め、自然治癒力を高める以外にないと考えます。
     
    日本は、緊急事態に入っています。健康、精神、経済、その他、どんなことでも無料でご相談に応じています。ご遠慮なく下記までご連絡下さい。皆様方のご健康、ご繁栄、ご多幸を心より祈念しています。
     
    鈴木  〒610−1146  京都市西京区大原野西境谷町3-6-3-405
    自然代替療法研究 http://kawaiya.0394.daa.jp/  st024@world.ocn.ne.jp
    電話075−333−0578  携帯090−3495−8345
     
    | 社会状況 | 18:19 | comments(0) | - |
    遺伝子ミネラル水で不整脈が完治した!遺伝子ミネラル療法体験記(1)
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      遺伝子ミネラル療法体験記(1)
      遺伝子ミネラル水で不整脈が完治した!!
        
      鈴木登志正 〒610-1146
      京都市西京区大原野西境谷町3-6-3-405
      昭和25716日生まれ

       

       

      【参考】

      遺伝子ミネラル水とは、花崗岩から特殊な方法で抽出したバランスの取れた金属ミネラル水です。健康を維持するために絶対必要で、ミネラルは遺伝子とのかかわりが大きいことから、遺伝子ミネラル水溶液と命名されました。

       

      遺伝子ミネラル療法とは、この遺伝子ミネラル水を飲んで病気を治療する方法のことで、全国には、野島尚武先生(信濃町外苑クリニック)、新田紀夫先生(医療法人翠十字杜都千愛病院長)、沼田光生先生(海風診療所院長、医療法人仁徳会周南病院理事長)、白川太郎先生(ユニバーサルクリニック)など、この遺伝子ミネラル療法で治療成果を挙げている医師もいらっしゃいます。
      【参考】 遺伝子ミネラル水溶液Q&A(1)  遺伝子ミネラル水溶液Q&A(2)

      私は、この遺伝子ミネラル療法で「不整脈」が完治しました。これからその「いきさつ」についてお話します。

      平成
      212009)年の秋の頃、私は、ひどい不整脈で苦しんでいました。朝から晩まで、激しい動悸がして心の休まることがありません。近くの総合病院「洛西ニュータウン病院」の内科を受診し(松本恵子先生)薬を飲んでいました。(この頃のコレステロール値190前後)

      丁度その頃(10月初旬)のことです。30年来の友人である京都府相楽郡精華町の東(ひがし)さんから、「将来、インターネットで人生相談(運命鑑定)の事業展開をしたいので、インターネットのノウハウを教えてほしい」と依頼がありました。
      東さんは、京都南山城加茂の里、奈良春日大社系 三十八神社宮司 )

      長年お付き合いしてきた友人からの依頼ですので、私は快諾し、1021日から毎週一回、マンツーマンで特訓を開始しました。

      京都市西京区の拙宅から精華町の東さん宅までは、バスや電車を使って片道80分ほどかかります。そこで一回宛の特訓時間は平均約7時間ほど実施しました。

      最初の日は、パソコンの点検から始めましたので、夜遅くまで掛かってしまい予定はしていなかったのですが、とうとう東家に宿泊することになってしまいました。

      その翌日の1022日の午前中、いつもなら激しい不整脈に悩まされる時間なのに、その日は動悸が全然起こりません。

      とても不思議に思いましたので、東さんに「ここに来たら体調が良くなった。不思議だ!」と告げ、午後、帰宅しました。

      次に東さん宅へ出かけたのは、約一週間後だったと思います。この日は特訓を始めて約23時間すると不整脈が緩和し体調がどんどん良くなっていきました。

      東さんは神道家(三十八神社宮司)で、ご自宅にも神様をお祭りしていますので、ここの神様のご威光で動悸が起こらなくなったのかな?とか、ひょっとして風水(家相)のせいかな?とか、地面に活性炭や、備長炭が敷き詰めてあるのかも?とか、いろいろ想像して楽しんでいました。

      これで二回も「不整脈」が緩和し、体調が良くなったので、「ここに来ると体調が良くなる!不思議だ!」と東さんにお話したところ、私(鈴木)が不整脈で苦しんでいると聞いたので、特訓の日は、毎回ジュースの中に、遺伝子ミネラル水(100倍水溶液・以下同じ)を30ml程入れて出した!と打ち明けられました。

      東さんのお話を聞き、私は「遺伝子ミネラル水」のすばらしさに驚嘆しました。このとき私は、病院の薬は、飲用後8時間ほどで薬が切れると、また元どおり不整脈が出るため、薬は一時しのぎの対象療法であり、服用を続けると、むしろ副作用が怖いので、別の方法で直そうと思い、薬の飲用をやめていたのです。そのため体調が良くなったのは遺伝子ミネラル水の効果である事が確信できたのです。

      5日間、毎日100ml飲用で体調良好に
      東さんの気配りのお蔭でジュースと共に「遺伝子ミネラル水」を飲用・体験することができ、理屈抜きで「遺伝子ミネラル水」のすばらしさを体感できたのは本当に幸いでした。この日、東さんが特訓のお礼といって「遺伝子ミネラル水(500ml)」を一本下さいましたので、その日から5日間、一日に100ミリほど飲みましたところ、めきめき体調が良くなっていきました。

      4週間後、不整脈が消え病院とおさらば
      1117日、予約が入れてありましたので、洛西ニュータウン病院で診察して頂いた所、主治医の松本恵子先生から「不整脈」が見られなくなったといわれました。(因みにこの日の血圧は140100でした)。

      遺伝子ミネラル水を飲み始めてからまだ4週間しか経っていませんし、飲んだのは東さんのお宅で4日、自宅で5日、計9日でしたので、本当に不整脈が治ったのか信じられませんでしたが、動悸がありませんので、この日を最後に通院するのをやめました。

      シーガル株式会社の愛用会員に登録
      連休明けの1124日に遺伝子ミネラル水を販売するシーガル株式会社の愛用会員となり、11月末頃から毎日100ミリほど飲み続けました所、どんどん体調が良くなり、1227日頃には不整脈はまったく見られず完治してしまいました。

      飲み続けるために代理店登録
      この「遺伝子ミネラル水」は、私にとって素晴らしい妙薬だと分かりましたので続けて愛飲する為に、その年の12月にはシーガル株式会社の代理店になりました。

      毎月の仕入れや販売ノルマなど一切なく、全商品代理店価格で購入できるので長期間愛飲する為に最適だと思ったからです。また、遺伝子ミネラル水は、素晴らしい健康食品だと確信しましたので、代理店になって卸価格で購入し、機会があれば知人や友人に紹介(プレゼント)したいと思ったからです。

      5週間後バス停まで走れた
      京都市で毎月開かれる「ミネラル講演会」が開催された平成222010)年110日、午前中インターネットで仕事をしていて、気がつくとタイムオーバーで、歩いていたんではバスの時刻に間に合いそうもなかったので、バス停まで約5分ほど走りましたが全然平気でした。全身が10年程若返ったような感じで毎日快調で嬉しくて仕方がありません。飲み始めてまだ5週間しか経っていませんでした。

      半年後、眼精疲労が消えた
      私は、当時、仕事で毎日パソコンを利用する時間が長いため、眼精疲労に悩まされていました。ミネラル講演会で点眼用として「遺伝子ミネラル水1:水9」の水溶液が効果的だと聞きましたので、早速実行したところ、ブルーベリーを食べたり、生姜温湿布をしたり、いろいろ努力しても直らなかった眼精疲労が消えていました。おそらく眼も若返ったのでしょう!気がついたのは点眼し始めてから約3ヶ月後、飲み始めて約半年後の事でした。もちろん充分目を休ませる休養も必要です。

      1年後、元気で楽しい毎日
      それから毎日60mlほど、遺伝子ミネラル水を飲み続けましたところ、体調がどんどん良くなり元気が出てきましたので、平成222010)年の春には余暇を利用して、近くの遊歩道脇の空き地を開墾して花畑を作り楽しんでいました。同年8月頃には自治会の役員(保健衛生部長)として活躍し、自治会員の要望に応え、猛暑の中、幼児遊園の樹木の剪定(枝はらい)をするなど、自分でも信じられないほど元気になって、楽しく毎日を過ごす事が出来ました。


      遊歩道脇の花壇(境谷小学校南側)

      2年半後、高血圧が正常値に
      その後も健康維持のため、遺伝子ミネラル水を毎日60ml以上飲み続けたところ、体質が変化したのか、食生活が無理なく野菜中心に変わっていき、平成242012)年6月には、一年間で難なく約15キロの減量に成功し、20歳ごろのスリムな体格(身長168センチ体重68キロ)になりました。その頃、健康管理のため近くの総合病院で血液検査と血圧を測定してもらった所、半ば諦めていた高血圧(150100)が正常値(12080)に戻っていました。

      3年後、生活習慣病と無縁の日々
      平成242012)年10月、遺伝子ミネラル水を毎日60ml以上飲み続けて3年、野菜中心の食生活を続けたせいもあり、18ヶ月で約20キロの減量に成功し、高校時代のスリムな体格(身長168センチ体重62キロ)になりました。からだの動きが軽快で、長時間仕事をしても疲れにくく、肩こりや腰痛、また眼精疲労もありません。いわゆる生活習慣病と全く無縁の、健康で楽しい毎日を過ごしています(コレステロール値128)。これは、要するに、イオン化されたミネラルを吸収した身体が若返ったと考えられるのです。

      4年後、癌や脳梗塞にならない自信が出る
      平成252013)年9月、遺伝子ミネラル水を愛飲して健康管理を続けていけば、日本人の2人に1人が罹るといわれる癌や、脳梗塞・心筋梗塞などの生活習慣病にならないだろうという自信が出てきました。血圧は中学生並みの良好な数値です(11570)。(コレステロール値129

      4年間、一日も風邪で寝込まなかった健康の秘密
      平成262014)年126日、この4年間を振り返ってみました。すると、遺伝子ミネラル水を飲み始めてから今日まで、一日として風邪で寝込んだことのない健康で快適な日々であった事が分かりました。今回は、その秘密をお知らせします。

      私は、この4年間に「鼻水や痰が出たり頭痛がしたり、あっ!風邪に罹ったかな」と思ったときは4〜5回ありました。ミネラル講演会(健康セミナー)で、風邪かなと思ったら遺伝子ミネラル水を一度に体重の1.5倍ほど飲むと効果が有ると聞いていましたので、私は、その都度すぐに遺伝子ミネラル水を一気に100mlほど飲用し、就寝前にも100mlほど飲用してみました。すると翌朝は、スカットした気分で、風邪はすっかり治っていたのです。

      年間、健康で快適な日々、野菜作りを始める
      平成272015)年716日、遺伝子ミネラル水を愛飲して足掛け7年目の誕生日(65歳)を迎え、毎日が健康そのもので、快適です。この6年間、土曜、日曜、祝日の天気の良い日は、仲間と一緒に遊歩道脇の花壇のお世話や清掃ボランティアにいそしんできましたが、風邪で寝込んだことは一日も有りませんでした。平成27 2015 )年 620日、西京区大原野石見町で、水田地帯の中の畑をお借りして、野菜作りを始めました。朝夕の畑仕事が楽しく、自然農法に近い無農薬有機農法でできた作物を前にして、幸せを満喫しています。勢い余って平成27(2015)年8月、人類健康回復大運動を開始しました。

      ミネラル講演会で約1時間のスピーチ、会場沸かす
      平成27(2015)年9月12日、ミネルヴァ ミネラル健康学習セミナー講演会で約一時間ほどスピーチさせて頂きました。熱弁をふるっての体験談「遺伝子療法について」は、好評で、心身ともに超元気であることを証明しました。
       
      13回目の献血で、400ミリの採血があっという間に終了
      平成27(2015)年9月17日、近くの商店街「ラクセーヌ」で日本赤十字社の献血が行われていたので、郵便局に行ったついでに献血しました。約一年ぶりのことで、通算13回目でした。何分くらいかかりますかと聞くと、約20〜30分とのことでしたが、5分くらいで終了しました。看護士さんがやわらかい弾力性の有る血管ですね!と感心され、何か特別なことをやっているのですかと聞かれましたので、遺伝子ミネラル水を足掛け7年飲んでいますと答えました。

      わんちゃん(犬)のアトピー性皮膚炎が完治した
      知人のKさん(京都市西京区御陵大枝山町)が大切に飼育している愛犬が、胸・腹のアトピー性皮膚炎に罹り、動物病院で治療したが一向に良くならないというお話を聞いたので、平成222010)年12月、遺伝子ミネラル水(スーパーミネマックス)の飲用と患部への塗布をお勧めしたところ、少しずつ良くなっていき、1年後の平成23年(2011)年12月には、完治していました。遺伝子ミネラル水で人間のアトピー性皮膚炎が完治した例はたくさんあるでしょうが、わんちゃん(犬)のアトピー性皮膚炎が完治した例は珍しいのではないでしょうか。
      【参照】
      愛犬の体重が10キロでしたので、毎日、遺伝子ミネラル水10ミリグラムを水と一緒に飲ませ、一日1回遺伝子ミネラル水の原液(100倍水溶液)を患部に塗布(スプレー)していただきました。
       
       
       
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      | 遺伝子ミネラル療法 | 20:47 | comments(0) | - |
      抗癌剤で苦しむ人に朗報!遺伝子ミネラル水で抗癌剤の副作用が皆無!
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        遺伝子ミネラル療法体験記(2)
         
        抗癌剤で苦しむ人に朗報!
        遺伝子ミネラル水で抗癌剤の副作用が皆無!

        この体験記は、西 美忠(にし よしただ)さんからの聞き書きです。
        (聞き手は鎌形昌枝さん 京都市山科区東野中井ノ上町14-4 鎌形酒店・自然食品店経営)

        平成27年7月現在の西さんの状況
        京都市山科区在住、昭和4年11月29日生まれ84才。身長157センチ、体重53キロ、中華料理店「なぎはん」経営。毎日お元気で働いておられます。


        肺癌に掛かった当時(平成20年6月頃)の生活状況について
        肺癌発見のきっかけは市民検診でした。血圧140、睡眠5時間、痛み苦しみあまりなし。
        家族は、妻と二人暮らし、労働時間1日10時間(中華料理店「椥辻飯店」経営)、体調良好。通院していた病院は、京都民医連中央病院
        (呼吸器科)。主治医に肺癌ですが手術されますかと聞かれました。気力はありましたので「手術して下さい」と答えました。京都民医連第二中央病院に移り組織を取って検査して頂きました。


        入院・手術時の状況
        小細胞癌がたくさん散らばっていると言われ、中央病院で手術して貰いました。点滴の抗癌剤が合わず、イレッサ(肺癌の分子標的治療薬「ゲフィチニブ」)も合わず、別の飲み薬に変えたらよく合ったので、その抗癌剤で治療して貰いました。20日間入院しました。入院中は体調が良く食欲も充分ありました。抗癌剤による副作用は全く有りませんでした。

        手術直後の状況
        血圧126、睡眠8時間、手術で癌細胞は全部取れなかったので、主治医から通院で治療しますと言われました。

        2年後(平成22年)
        ペット検査で癌は消滅していました。


        【参考】(PET検査は、がんを検査する方法の一つで、特殊な検査薬で「がん細胞に目印をつける」というのがPET検査の特徴。PET検査では、検査薬を点滴で人体に投与することで、全身の細胞のうち、がん細胞だけに目印をつけ、専用の装置で体を撮影することで、がん細胞だけを見つけることができる。PETにより、従来の検査にくらべ、ずっと小さな早期がん細胞まで発見することが可能になった。)

        4年目(平成24年)
        肺に水が溜まったので、入院して抜いて貰いました。中央病院で3週間に1回点滴の抗癌治療を受けました。

         
        西さんが遺伝子ミネラル水に出会った時の会話
         
        鎌田
        平成20年6月20日のことは、あまりの衝撃で忘れることが出来ません。西美忠さんが弊店においでになったときのことです。

         
        西 
        肺癌になってしまいました。5日後に手術します。安全な特効薬ありませんか。

        鎌田 
        えっ、肺癌ですって!うそでしょう、そんなに大きくなっているんですか。

        西 
        はい、小細胞癌が肺中にたくさん散らばっているんです。

        鎌田 
        食べ物には感心するほど気をつけてはったのに―。苦しいでしょう!痛みませんか。

        西 
        今まで病気には縁がなかったものですから心配で心配で―。

        鎌田 
        西さん大丈夫、これが有ります。心配しないで。4月に出会ったばかりです。癌の人が次々回復されているんですよ。これです。遺伝子ミネラル水溶液といいます。

        西 
        何から出来ているんですか?

        鎌田 
        約数億年間、地下数千メートルの海底に埋もれていたものが地上に隆起した鉱物です。東北地方の阿武隈山系から切り出された花崗岩(蛭石)を酸で処理してイオン化し、添加物を一切使わず作られたのが「遺伝子ミネラル水溶液」です。鉱物性のミネラルをいっぱい含んでいるんです。超ミネラル水ともいいます。

        西 
        すごいものですね。

        鎌田 
        魔法の水、神の水といいたいです。最近、生活習慣病が急増しているでしょう。その原因がミネラル不足なんです。昔は有機栽培でしたが、今はお野菜等は農薬・化学肥料が主流です。だから土の中のバクテリアが死に土がスッカリ痩せてしまったのです。だから農作物がミネラル不足になったのです。西さんはそんなことはよくご存知ですものね。現代は豊かさ便利さを追求するあまり、ストレスや電磁波等々で、人間ばかりではなく、地球上に生かされているあらゆる生命がおびやかされているというのは本当に悲しいことですね。

        西 
        その通りですね。いろんな健康食品がありますが遺伝子ミネラル水は本物ですね。これにかけます。ところで、どれだけ飲めばいいんですか?

        鎌田  
        1日に150CCを、2倍にうすめて5回に分けてお飲み下さい(薄めるのは3倍でもいいのです)。朝寝起き30CC、朝食前30CC、昼食前30CC、夕食前30CC、お休み前30CCです。

        西 
        今日からしっかり飲みます。病院へも持って行きます。

        鎌田 
        西さんは素直で心の清らかな方ですから、きっときっとよくなられますよ。祈ってます。

        西 
        有難うございます。前途に希望が持てました。

        鎌田 
        遺伝子からのメッセージの冊子お読み下さいね。

         
        鎌田 
        西さんは明るい表情で帰られました。その時の目の輝きが今も鮮明に浮かんできます。それから15日後に西さんからお電話がありました。

         
        西 
        もしもし西です。遺伝子ミネラル水はすごいものですね。手術もうまくいって抗癌治療もしてるけど、抗癌剤の副作用が全くなく、お腹が空いて好調です。髪の毛も抜けないし、元気です。2〜3日したら退院できそうです。早く鎌形さんのお店の納豆やお野菜も食べたいです。

        鎌田 
        そんなに早く退院していいんですか?おめでとうございます!

         
        鎌田 
        翌々日、肺癌の大手術後の西さんと思えない元気さで、にこにことお店まで来て下さいました。
        手を取り合って喜び合った西さんの手の温もりを忘れることが出来ません。椥辻飯店(中華料理店)経営される西さんは、その時77才でした。お店も改装されて「なぎはん」と改名し84才の今も毎日笑顔で働いていらっしゃいます。西さんはしみじみ語られます。

         
        西 
        遺伝子ミネラル水溶液のお蔭で命を頂きました。多くの方々に心より感謝致します。有難うございます。長年口に入れるものは安全なものを中心にしてきたのも肺癌を克服できたお蔭と思います。

         
        鎌田 
        私は今、遺伝子ミネラル水溶液を研究開発して世に送って下さった多くの方々や健康な身体づくりの為に、今何が必要かを分かりやすく説いて、日本中に健康と笑顔の種まきをして下さっている「シーガル株式会社の秋山社長」と多くの方々に、心よりお礼を申し上げ感謝致します。計り知れない恩恵を頂きながら生かされて参りました事を思います時、少しでもお手伝いさせて頂けますことが嬉しくて喜びがあふれて参ります。有難うございます!有難うございます。

         
         
        【参考】
        遺伝子ミネラル水とは、花崗岩から特殊な方法で抽出したバランスの取れた金属ミネラル水です。健康を維持するために絶対必要で、ミネラルは遺伝子とのかかわりが大きいことから、遺伝子ミネラル水溶液と命名されました。
         

        遺伝子ミネラル療法とは、この遺伝子ミネラル水を飲んで病気を治療する方法のことで、全国には、野島尚武先生(信濃町外苑クリニック)、新田紀夫先生(医療法人翠十字杜都千愛病院長)、沼田光生先生(海風診療所院長、医療法人仁徳会周南病院理事長)、白川太郎先生(ユニバーサルクリニック)など、この遺伝子ミネラル療法で治療成果を挙げている医師もいらっしゃいます

         【参考】 遺伝子ミネラル水溶液Q&A(1)  遺伝子ミネラル水溶液Q&A(2)
         
         
         
         
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        | 遺伝子ミネラル療法 | 15:05 | comments(0) | - |
        「歓喜嶺遥か!―満州建国大学植樹班物語―」
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          『歓喜嶺遥か!―満州建国大学植樹班物語―』(鈴木登志正著)

           

          プロローグ―賢治が満州を緑化した―

          東北の詩人「宮沢賢治」が、満州「建国大学」の緑化運動を推進したという話を
          ご存じの方は少ないことだろう。実際、賢治は満州に行ってもいないし、建国大
          学の緑化運動が進められている時、既にこの世の人ではなかったのですから。

           

          しかし、私は、どうしても賢治が建国大学の緑化運動を推進したのだと大声で叫
          びたいのです。昭和十三年、建国大学に第一期生として入学した岩手県出身の
          岩渕克郎青年が、緑したたる日本への望郷の念にかられて建大キャンパスの緑化
          運動に立ち上がり、植樹活動に夢中になって取り組んでいた時、植樹作業の行き
          帰りや休憩時間などにロシア人大学生の弾くヴァイオリンの音に合わせて賢治の
          有名な「精神歌」が「植樹班の歌」のように必ず歌われたというものです・・・

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          東西両洋文化研究所
          事務局 鈴木

          | 満州建国大学植樹班物語 | 19:28 | comments(0) | - |
          東西文化融合の旗手たち(二)キャノン・ゴードン 中山吾一−両洋に架ける橋−
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            強制移動でおもいだす   ジョイ・コガワ

            父さんと 母さんが
            私たちの心が傷つかないよう
            気を使っていた苦労を
            おもいだす


             

            日本語で
            名前が書けるといばった時
            「じょうだんじゃないよ」
            といった
            ロレーン・ライフのなぞ


             

            戦争が終った時
            弟のティムは
            ユニオン・ジャックを
            かかげた
            なのにローレンたちは
            やっぱりつばかけた


             


            私は神に
            すべての子供を
            愛してくれる神に
            祈った
            私も白人になれますように


             

            (1)中山吾一の少年時代
            中山吾一は、1900年(明治34 )愛媛県喜多郡蔵川村(現大洲市)に生まれた。14才の時、父親が農作業の事故に遭い、それが原因となって急逝したため、一家は困窮して中山吾一の進学の夢は断たれようとしていた。
             

            しかし、中山吾一は、進学の夢を捨てきれず、15才の時、家出同然にして京都に上洛。当然苦労の連続で、新聞配達をしながら聖護院にあった「京都正則予備学校」に学び、ここで中根正親校長(後の両洋学園長)に邂逅した。後に、中根正親から京都正則予備学校の特務生として予備校の雑務をしながら学ぶことを許され、学科のみならず、人生万般の薫陶を受けた。
             

            (2)カナダへ雄飛
            中山吾一は、1918年(大正7)京都正則予備学校を卒業後、立命館大学の予科に進学したが、ある日、せまい日本を離れて世界に雄飛しようとの大志を立て、バンクーバー在住のおばを頼って単身カナダへ渡った。
             

            当時19才の中山吾一は、医者になるつもりででバンクーバーの病院に勤務した。おばさんの夫がメソジスト協会の牧師であったため、自宅で開かれる「集い」に誘われたが、日本を離れる時、キリスト教に改宗することを恐れる母親に、絶対にキリスト教に入信しないと誓ったこともあり、おばさんの誘いをいつも断っていた。
             

            (3)神父、クーパーとの出会
            ところが、1920年(大正9年)のある日のこと、中山吾一がバンクーバーの日本人街の近くを通りかかると、うす汚れた小さな教会から美しいオルガンの音が流れており、その音色に魅せられて吸い込まれるように中へ入っていくと、壁にはキリスト教の宗教画がたくさん掛けられてあり、白衣に身を包んだ一人の神父が会衆を前に熱心に福音を述べ伝えていた。その神父の名は、ウィルバーフォース・クーパーといい、聖公会の英国人牧師であった。
             

            神父クーパーは、この日、十字架に架けられたイエスの画像を前にして、次の三つの話をした。その一つは「汝の敵を愛せよの話」。第二は「イエスと共に十字架に架けられた二人の盗賊のうち、罪を悔いる盗賊に向かってキリストがその罪を許し、永遠の生命を与えた話」。第三は、「イエスの母マリアが自分に振り掛かる危難を顧みず、刑場のイエスに近づいた時、イエスは処刑される自分の身の上のことを忘れて、母マリヤのことを気遣い、弟子のヨハネに母マリアの老後を託した話」であった。
             

            中山吾一は、この第三の話を聴いた時、「私の傲慢な心は、この時ついに砕け散って、私はこのイエスの母を思う愛の心をキリストの心として受け継ぎ、キリスト者になろうと決意し、日本にいる母親に他の兄弟の出来ない方法で親孝行しようと、深く強く決意した。」
             

            (4)キリスト者としての出発
            このように、神父クーパーに出会ったことからキリスト教に開眼した中山吾一は、最初医者になって人々に奉仕しようとブリタニア・ハイスクールに入学したが、病気で退校し、次に教育者になろうとマクリーン・ハイスクールに学ぶかたわら、日本語学校を創立し、その校長として教えた。そして、1924年(大正13)には、神学を学ばんと志し、バンクーバー聖書神学校に入学した。そして1929年(昭和4)長男の死産を契機として精神的転機を迎えた中山吾一は、聖職者たらんとバンクーバー大学内の聖公会神学校に学び、遂に1934年(昭和9)10月28日、聖公会の牧師になった。
             

            中山吾一の牧師としての態度は、悩める人、苦しんでいる人の良き友となり、共に悲しみ共に苦しむというキリストの愛の精神によるもので、日系人ばかりでなく白人の信者にも多大の教化・教導をし、多くの人々から慕われた。
             

            (5)失われた祖国
            中山吾一の人生は波乱に富んだものであったが、中でも特に第二次世界大戦時の強制収容所時代の出来事は、筆舌に尽くし難いものであった。第二次大戦が始まった時、カナダに住んでいた日系移民二万三千人のうち、その二万一千人がバンクーバーに住んでいたが、カナダ政府はアメリカ西海岸から百マイルを防御地帯として、それ以外の所へ日系移民を移動させて、収容所生活を強制した。
             

            こうした苦しい収容所生活が三年間も続いたが、中山吾一は毎日あちこちのキャンプを回っては人々を慰め励ました。この収容所時代の思い出をドキュメンタリーフィクション(半自伝的小説)『失われた祖国』としてまとめたのは、中山吾一の愛嬢「ジョイ・ノゾミ・コガワ」である。『失われた祖国』は、原著名を『Obasan』といい、カナダ文学賞、米国図書賞など五つの文学賞を獲得したベストセラーズであった。

             

            『失われた祖国』は、海外に於ける日本民族東西文化融合史上の輝かしい軌跡をまとめたものだと私は思う。日本民族に課せられた大きな使命があるが故に、日系人が経験しなければならなかった多くの悲しみと苦しみの記録であり涙の結晶である。二つの異質文化が正面から裸でぶつかり合えば、そこには当然数多くの誤解や衝突や抵抗が生まれる。二つの文化の融合は、それらのトラブルを乗り越えてはじめて実現する。『失われた祖国』は、東西文化融合史上の貴重な資料である。

             

            (6)伝道に生きる日々
            戦後、収容所からアルバータ州コールデールに強制移住させられた中山吾一は、カナダ政府のひどいやり方にもくじけず、勇気を奮い起こして立ち上がり、福音の伝道を開始した。アルバータ州の各地を自転車で回って愛の福音を述べ伝える中山神父の熱意にほだされて、キリスト教に改宗した老夫婦が、聖書を熱心に読み始めた話や、伝道中、急に寒波に見舞われて、雪のため背中が冷えて身動きできなくなり、雪の中にうずくまって意識が朦朧となる中、全身の力を振り絞って賛美歌を歌い続け奇跡的に死地をのがれたり、日本人・白人合同の教会の牧師として活躍したことなど、中山吾一の活躍はカナダ全土はもとより、世界の各国にも及ぶもので、文字通り両洋を股にかけて世界の人々の教化教導のために尽くした。
             

            そのため中山吾一は、1966年キャノン(参事司祭)の称号を授けられ、1974年にはピエール・トルドー・カナダ首相より表彰を受け、1978年には、英国女王クイーン・エリザベス二世より表彰され銀メダルを授与された。
             

            (7)著書
            『神の声を聴く時』
            『美しき信仰物語』 日本人聖公会文書伝道部、1936
            『米国・ハワイ伝道の旅』  カナダ日系人聖公会文書伝道部、1958.11
            『わが体験を語る』  カナダ日系人聖公会文書伝道部、1959.9
            『私の実行している健康法』 カナダ日系人聖公会文書伝道部、1960.8
            『健康と食物』 カナダ日系人聖公会文書伝道部、1962.4
            『栗実る郷』  カナダ日系人聖公会文書伝道部、1965.3
            『主の幻に導かれて』  聖公会出版、1982.7
            『新しい天と新しい地』  聖愛刊行委員会、1986.3
            『一世』  聖愛刊行委員会、1987.5
            『永遠の旅』 聖愛刊行委員会, 1987.7
             

            | 中山吾一 | 16:04 | comments(0) | - |
            東西文化融合の旗手たち(一)新井奥邃−明治維新が生んだ、キリストの志願奴隷戦士−(4)
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              大徳は跡なし。跡なきに非ず。其の行くや静かにして凡人の眼に隠る。譬へば淵川の能く庶物を潤ほして氾濫するなきが如し。謙道を厭はず。故に隠路を通じて遺(のこ)さず。世人の其の路を見ざる所以なり。(『奥邃広録』)

               

              4、新井奥邃の祈りと東西文化の融合
              新井奥邃のキリスト教理解が、どのようなものであったのかは、奥邃の「信感」(文章)と奥邃の日々の実践を見れば明らかだ。奥邃は自らキリストの志願奴隷たらんと日夜「祈り」と「実践」に余念がなかった。そのことを如実に示す逸話がある。「謙和舎」に空き間が有るにもかかわらず、親しい人から青年の入居をいかに頼まれても、奥邃は「この上、藁一本でも負はされる事は堪えられません。」と言って、新たな入居を断ったというのである。
               

              弟子の永島忠重は、このことについて「実に先生は晩年に至り、多年の間人知れず負担せる内外の重荷の為めに、身心ともに困憊して了われたのである。併し其れでも能く忍耐に忍耐して、霊的激戦を遁れようともせず、皆自分が神に於て当然負うべき十字架と覚悟して。最後に至るまでも能くも倦まずして奮闘をし続けられた。其の不屈不撓の勇猛心に至っては讃嘆するに余りある者であった。」(『新井奥邃先生』永島忠重)と述べている。

              次に、奥邃のキリスト教理解を如実に示す「信感」を紹介しよう。
               

              「キリストを信ずるは」
              蓋し予の基督を信ずるは、人に由りて信ずるに非ず、直に基督の信によりて基督を信ずる者なり。故に予の基督の復活を信ずるは是れ実に基督に由りて之を信ずるなり。パウロの伝ふる所のもの、予亦之を聞くと雖も、然れども予は必ずしもパウロに由りて基督の復活を信ずる者にあらざるなり。拠るところあり。別に有り。神の微言基督に在りて離れざる者、我が為に之を証す、予のキリストを信ずるは、即ち耶蘇基督に由りて之を信ずるなり。予は我が程度に於て基督の信を我が霊体に受け、既に之を受けて之を存養し、而して其の存養の度に従って又之を兄弟の能く受くる者に伝ふ。

               

              この奥邃の「信感」を見れば、奥邃のキリスト理解の度がいかなるものかは明白で、この辺りの消息は、留学僧「空海」や「道元」らに匹敵するものではないかと思う。
               

              新井奥邃は、アメリカはハリスの門下に学ぶうち、その目標の純粋性ゆえに、ついにキリストの信に到達して「見性」し、以来三十年の長きに亘って研鑽を重ね、機の熟すとみるや心に一大使命を抱いて帰朝したのである。而して帰朝せる奥邃の主眼としたものは、徹底したキリスト者としての雄々しき生涯を貫き通すことであり、欲を去り己を虚しくして、ひたすらキリストに従うこと(有神無我)であったのである。
               

              この新井奥邃の気高き生涯によって、明治維新に到るまでの日本文化(神・儒・仏)、即ち「東洋文化」(アジア文化の吹き溜まり)と、西洋文化とが、見事に十文字にクロスされて「東西文化の融合」がなされているのである。
               

              この見事なる融合は、新井奥邃が若くして漢学を学び、かなりの水準に達していたことと無縁ではない。異なる文化の融合には、自己の主体性が不可欠であるからである。
               

              最後に、新井奥邃の祈祷文を掲げてこの節を終わりたい。
               

              新井奥邃の祈り
              鳴呼、至高、至慈、至聖の父母上よ。我の人を赦す如く、願わくは、爾(なんじ)の大赦を行わるるが如く、我等をして亦能く大赦を行うことを得せしめ給え。
              鳴呼、願わくは、爾(なんじ)の内裏天国我等の中に充実し、、爾が御旨を内外に合わせて、我等の間に完成し、斯く宇宙の同胞をして、皆主の神に於て、大宇宙に完からしめさせられんことを祈り奉る。 アーメン


              【参考資料】
              知られざるいのちの思想家―新井奥邃を読みとく


              新井奥邃先生略伝(永島忠重)
              新井奥邃―公快共楽の栄郷を志向した越境者 (公共する人間 5)


              新井奥邃の思想 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈1〉)


              内観祈祷録・奥邃先生の面影 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈2〉)

              | 新井奥邃 | 13:48 | comments(0) | - |
              東西文化融合の旗手たち(一)新井奥邃−明治維新が生んだ、キリストの志願奴隷戦士−(3)
              0

                上より我等を召す微かなる声あり。「起ちて我に従え」と。之を聞けば仰がざるなし。之を仰げば、感じて其の愛の深きを讃嘆せずんばあらざるなり。ああ我に力なし。如何にして起たん。然れども誠に能く主に従はんと欲せば、必ず其の力を上より下し給はざるなし。(『奥邃広録』)

                 

                3、日本史における新井奥邃の位置
                新井奥邃は1922年(大正11年)6月16日、77才でこの世を去った。帰幽後、今年(平成2年)で68年になろうとしているが、世の多くの人々は「奥邃」という名前さえ知らない。それは、新井奥邃の生涯が、真にキリストに倣い、キリストの志願奴隷として「謙」に徹した「隠者」そのものであったことによるが、門弟「永島忠重」の努力によって新井奥邃に関する著書が次々と刊行されていたこと、維新前後の海外留学生の研究や田中正造研究、新井先生記念会の会員らによる研究、奥邃門下の数少ない生存者、元早大教授・工藤直太郎氏の著書『新井奥邃の思想』等々によって、新井奥邃研究は、今日ようやく世の注目を浴びるに到った。

                新井奥邃の生涯は、世俗的にはキリスト者として「謙」と「祈り」に徹した静かなものであったが、反面、日々キリストの道を行ずる人としての激しい内面生活があった。そうした新井奥邃の日常生活や、その他の新井奥邃に関する資料を読むうち、新井奥邃は森信三先生が指摘されるように、日本史上稀に見るキリスト精神の体得融和者であり、私たち日本民族にキリスト教理解への大きな「架橋」を残した東西文化融合の旗手だと思えるのである。

                明治維新以後、日本の留学生たちが海外で学んできた学問や文化は、得てして観念上の知的理解に留まり、真に自己の血肉と化すところまで到達しなかったことが多く、夏目漱石をして明治維新を「外発的の開花」と嘆かせた如く、真に我々日本民族の文化として融和されていなかったように思われる。

                こうした状況の中で、新井奥邃のキリスト教理解は、キリスト教の真髄を「道」として体得し、イエス・キリストと一心同体となったごとくに思われ、私は新井奥邃に「東西文化の融和者」を見るのである。


                【参考資料】
                知られざるいのちの思想家―新井奥邃を読みとく


                新井奥邃先生略伝(永島忠重)
                新井奥邃―公快共楽の栄郷を志向した越境者 (公共する人間 5)


                新井奥邃の思想 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈1〉)


                内観祈祷録・奥邃先生の面影 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈2〉)

                | 新井奥邃 | 17:28 | comments(0) | - |
                東西文化融合の旗手たち(一)新井奥邃−明治維新が生んだ、キリストの志願奴隷戦士−(2)
                0

                  嗚呼基督の道豈宏遠に伝ふるを欲せざる者あらんや。然れども之を伝ふる者一毫の欲あれば、即ち悪魔の奴となりて悪魔の道を伝ふるなり。不信者は罪軽し、信を装う者は罪悪尤も重し。(『奥邃広録』)

                  2、新井奥邃メモ
                  その後、森信三先生にお会いする機会に恵まれ、先生より京都在住の福田与先生を紹介して頂くなどのご縁により、「新井奥邃」なる人物は徐々にその謎のベールを脱いで、その真姿を現して来たのである。以下、新井奥邃に関する簡単なメモである。

                  (1)慶応四年、戊辰戦争が起きるや、江戸より急ぎ仙台に帰参、用いられて「奥羽列藩同盟」の結成に奔走。

                  (2)仙台藩が降伏すると同志と共に脱藩。函館は五稜郭に拠って官軍と抗戦することとなった。一方、ロシアの宣教師ニコライに会い、初めてキリスト教を知り、心を傾けてその教えの核心を学んだ。

                  (3)明治3年12月、24才の時、友人金成善左衛門の紹介で、後の文部大臣、森有礼の知遇を得、アメリカ初代公使に任ぜられて米国に赴任する森有礼に伴われて、その留学生の一人として、かつて森有礼が、かの地で学び師事したトマス・レ−ク・ハリスのもとに森有礼にかわってキリスト教を学ぶことになった。

                  (4)トマス・レーク・ハリスは、当代一の神秘主義者で、アメリカの地に共同体を設立して、毎日の労働を通して真のキリスト精神を指導した人である。

                  (5)新井奥邃は、ハリスに従って、その最後の共同体、カリフォルニアのサンタ・ローザにあったファウンテングローブ(泉の森)で、後のブドウ王「長沢鼎」ら一団の同志らとともに新たに購入した広大なる原野を開拓すると共に相当の労働を分担しつつブドウ園の開拓、経営に従事し、この別天地に孜々として道を修めること三十年に及んだ。

                  (6)明治三十二年八月、傘とカバンと二冊の英文自著を手にするの他、無一物にて飄然と帰朝した。

                  (7)帰朝後は独居転々、アメリカでの過去を一切語らず、職に就かず、在米中、縁あって世話した青年の父親・平沼延次郎(横浜銀行頭取)より献資を受け、東京巣鴨東福寺跡に書生二十名余を収容する寮舎に住し、舎生らの指導に当たるほか、舎出身者とその家族、その他の人々を集めて講話を行い食事を共にされた。

                  (8)先生は毎朝四時起床。身辺を清掃後、静座、瞑想数刻。其後は読書或は執筆。六時朝食。丁度夜明けのおそい時期であったから、二三の食卓には、ランプがともされ、床の間を背にした正面に先生、左右に学生が着席し、黙礼ののち箸を取った。朝の食事は何となく厳粛に感ぜられた。私は夜間は先生と同室であったので、それとはなしに、就寝前の先生の黙祷を窺い見たことがあり、その動作は厳粛にして、神秘的なところがあった。(中村木公『随感録』より)

                  (9)渡良瀬川鉱毒事件で有名な義人・田中正造は、新井奥邃と交流があり、巣鴨の謙和舎をたびたび訪ねており宿泊もしている。そして正造は奥邃より精神的指導を受けていたと思われる。

                  (10)奥邃は遺言して、自分を葬った土の上に墓碑を立てることを禁じた。自分の写真を一枚も残さず、生涯娶らず独身であった。

                  (11)奥邃は1922年(大正11年)この世を去った。死後、弟子の永島忠重が奥邃の書いた文章「信感」をまとめた『奥邃広録』(全5巻)をはじめ、『新井奥邃先生伝』『新井奥邃先生の面影と其の談話』『新井奥邃先生』などの著書を刊行している。

                  (12)新井奥邃に親炙し、またはその薫陶を受けた人々は、社会の表面に出て活躍した。参考の為その主な人々を掲げる。
                  永島忠重    『奥邃広録』他の出版者
                  中村千代松  代議士
                  内ヶ崎三郎  早大教授、代議士、衆議院副議長
                  中村秋三郎  田中正造の顧問弁護士
                  布施現之助  医博、東北大学医学部長
                  岡  通     医博、東北大学教授、甲南病院長、教会牧師
                  相原一郎   文部省宗教局参与
                  柳 敬助    洋画家
                  江戸狄嶺   農政学者
                  原田嘉次郎  牧羊家
                  大山幸太郎  宗教倫理学者
                  佐藤在寛   函館聾唖学校長
                  岩住良治   農博、東大教授
                  吉野作造   東大教授
                  山川丙三郎  ダンテ神曲の翻訳者
                  荻原碌山    洋画家
                  高村光太郎  詩人、彫刻家
                  野口米次郎  英語詩人
                  内藤乾吉   大阪市立大名誉教授、内藤湖南の長男

                  【参考資料】
                  知られざるいのちの思想家―新井奥邃を読みとく
                  新井奥邃先生略伝(永島忠重)
                  新井奥邃―公快共楽の栄郷を志向した越境者 (公共する人間 5)
                  新井奥邃の思想 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈1〉)
                  内観祈祷録・奥邃先生の面影 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈2〉)

                  | 新井奥邃 | 00:08 | comments(0) | - |
                  東西文化融合の旗手たち(一)新井奥邃−明治維新が生んだ、キリストの志願奴隷戦士−(1)
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                    今猶(なお)奴隷たる主の為めに、己(おのれ)亦奴隷の末に与(あずか)り得んことを志願する所以なり。予(よ)豈(あ)に自由民の如く、今日敢て闊歩するを願はんや。(『奥邃広録』)

                    1、新井奥邃との出会い
                    私が新井奥邃という聞き慣れぬ名前を初めて知ったのは、知人から借りた『全一学ノート』(森信三著)を手にした昭和54年の秋の日のことである。  

                    『全一学ノート』には、

                    新井奥邃(1846〜1922)明治維新後もっとも深邃な基督者なるも、その名は今日に至るもなお広くは知られず、真の隠者とは斯の人ならむ。  

                    先生名は常之進。弘化三年仙台城下に生まる。幼にして俊秀、藩学に学び、江戸遊学を命ぜらる。大政奉還後、官軍東北討伐の際、危地を脱して五陵廓に立てこもる。後逃れて千葉県下に匿れ、やがて在京の友人金成氏の推挙により、森有礼より第一回の渡米留学生の一員に選ばれ米国に渡る。他はすべて大都会の大学に学びしも、先生はひとり聖哲ハリスのブドウ園に入り、労働しつつ道を修めること三十有年。  

                    五十四才飄然として帰国。どの教会にも属せず、その句を引用して説教される事もなし。ただ「信感」(奥邃広録)の千言万語こそ、すべての聖書の生ける注釈であり、日常生活のすべてが生きた教説だった。  

                    終生めとらず、独居転々。後有志の一人巣鴨に謙和舎を献じ、青年二十名と起居を共にし、七十余年の生涯を了え給う。けだし基督の僕として大謙深愛の真人というべし。  

                    とあり、私は「新井奥邃」とは、一体何者であろうか?と、非常に興味をかきたてられたが、その時は訳の分からぬままに『全一学ノート』を閉じたのである。

                    【参考資料】
                    知られざるいのちの思想家―新井奥邃を読みとく
                    新井奥邃先生略伝(永島忠重)
                    新井奥邃―公快共楽の栄郷を志向した越境者 (公共する人間 5)
                    新井奥邃の思想 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈1〉)
                    内観祈祷録・奥邃先生の面影 (1984年) (新井奥邃の人と思想〈2〉)

                    | 新井奥邃 | 01:36 | comments(1) | - |
                    三人の東西文化融合の旗手たち
                    0

                       二十一世紀に生きる子らのために

                        二十一世紀に生きる
                        子らのために
                        わたしはわたしの願いを
                        書いておこう

                        東西の文化が
                        この列島に流れ寄り
                        混融和合して
                        新しい光と命とを産む
                        母胎の国であることを

                        そして天地創造の
                        大いなる使命を持って
                        いにしえから作られた
                        付託の国であることを

                        これからこの国を
                        承け継いでゆく子らに
                        はっきりと告げておこう
                                      詩集『詩国』(坂村真民)より

                      東西文化融合とは具体的にどのような営みを言うのであろうか。このことに言及するには、東西文化融合という日本民族の世界史的使命の大潮流に進んで身をまかせ、がむしゃらに突進していった、「東西文化融合の旗手」というべき三人の人物の生涯に光を当てることによって、われらの民族が、国際化時代の21世紀を生き抜いていくための方向が見えてくるように思うのである。

                      この三人の「旗手」とは、次の三人である。

                      (1)新井常之進(奥邃、キリストの志願奴隷)
                      新井奥邃(あらい おうすい、1846年 - 1922年6月16日)は、仙台藩士。森有礼に認められ、1871年1月23日(明治3年12月3日)、米国に渡る。トマス・レイク・ハリスの弟子となり、労働と冥想の日々を送り、1899年(明治32)、53歳のとき、英語の自著『内観祈祷録』一冊を携えて帰国。1903年(明治36)、巣鴨に「謙和舎」を開き、奥邃独特の伝道生活に入る。生涯娶らず、一枚の写真も肖像画もなし。1922年(大正11)6月16日、召天、77歳。墓地は東京都世田谷区代沢の森巌寺。
                      (出典;ウィキペディア「新井奥邃」)

                      (2)中山吾一(キャノン・ゴードン、聖公会牧師、1900年〜1996年)
                      中山吾一:1900年生まれ。1996年BC州バンクーバー市で死去。1919年カナダに移民。イギリス国教会の牧師としてイギリス女王より表彰を受ける。Canonの称号を受ける。著書:「一世」(カナダ政府よりの依頼で日系人として出版)ほか。著書30数冊は、University of Brithsh Columbia大学に保管。作家 Joy Kogawa女史の父親でもある。
                      (出典;「カナダ友好協会HP」)

                      (3)中根正親(両洋学園創立者、1890年〜1984年)
                      中根 正親(なかね まさちか、1890年10月16日 - 1984年8月16日)は、中根式速記法の創案者。学校法人両洋学園創立者。要体教育と呼ばれるユニークなアイディアを取り入れた学習法の研究と実践をはじめ、時代をリードする斬新な教育活動に生涯を賭けて打ち込んだ熱血校長。生徒からライオン校長の異名で畏敬された。現役校長70年間の経歴はギネスブック級の超人的記録。1966年(昭和41年)には京都新聞五大賞「第一回教育賞」を受賞。弟に東京の中根速記学校を創立した中根正雄がいる。(出典;ウィキペディア「中根正親」)

                      この3人の人物は、その生涯を貫く「実践」によって、優に世界文化樹立のための「東西文化融合の一大架橋」たり得ていると考えるのである。この3名の人物が一体いかなる動機に突き動かされて、「東西文化融合の旗手」に値する行動をしたのかを明らかにすることは、到底私の力の及ぶところではないが、恐らくは、森信三先生の説かれる「日本民族の原始無限流動」ではないかと推察するのである。そうであるならば、この人々の人生の軌跡と、その熱き想いとを辿って行けば、過去・現在・未来を貫く我ら日本民族の悠久の歴史の中で、私たちがこれからどのような視点に立って対処したらよいか、大きな示唆を与えられると思うのである。

                      | 東西文化融合,中根正親,森信三,中山吾一 | 01:00 | comments(0) | - |
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